東京地方裁判所判決 令和4年(ワ)第30281号
主 文
1 被告は,原告●に対し,1821万2043円及びこれに対する令和4年6月10日から支払済みまで年3分の割合による金員を支払え。
2 被告は,原告▲及び原告■に対し,各952万9051円及びこれに対する令和4年6月10日から各支払済みまで年3分の割合による各金員を支払え。
3 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
4 訴訟費用は,これを5分し,その1を原告らの負担とし,その余を被告の負担とする。
5 この判決は,第1項及び第2項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
1 被告は,原告●に対し,2389万8669円及びこれに対する令和4年6月10日から支払済みまで年3分の割合による金員を支払え。
2 被告は,原告▲及び原告■に対し,各1125万7069円及びこれに対する令和4年6月10日から各支払済みまで年3分の割合による各金員を支払え。
第2 事実関係
1 事案の概要
本件は,心房細動のため被告が運営する◆クリニック(以下「被告クリニック」という。)に通院して継続的に抗凝固薬であるワーファリンを服用していた亡○(以下「亡○」という。)の相続人である原告らが,被告クリニックの★医師(以下「★医師」という。)は,亡○に対し,ワーファリンに代えて別の抗凝固薬であるイグザレルトを処方するに当たり,ワーファリンの服用を中止する旨指示したのであるから,亡○に対し,定期的に血液凝固能検査を行い,血液の固まりにくさを示すPT-INR(プロトロンビン時間国際標準比)の値が1.6を下回った時点で速やかにイグザレルトを投与すべき注意義務があったにもかかわらず,これを怠った注意義務違反があり,これにより亡○が心原性脳塞栓症を発症して死亡したと主張して,被告に対し,債務不履行又は使用者責任による損害賠償請求権に基づき,①原告●につき損害金2389万8669円及びこれに対する令和4年6月10日(亡○の死亡日)から支払済みまで民法所定の年3分の割合による遅延損害金の支払を求めるとともに,②原告▲及び原告■につき損害金各1125万7069円及びこれに対する前同日から支払済みまで各民法所定の年3分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
2 前提事実(争いのない事実,顕著な事実並びに掲記の証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)
(1) 当事者等
ア 亡○は,昭和11年10月*日生まれの男性である。原告●は亡○の妻であり,原告▲及び原告■は上記両名の長女及び二女である。(甲C1の3)
イ 被告は,被告クリニックを運営する医療法人である。★医師は,被告クリニックの副院長を務める内科医である。(争いのない事実,乙A3〔7,8頁〕)
(2) 事実経過
ア 亡○は,従前,高血圧症,心房細動のためO医院に通院して抗血小板剤であるバイアスピリンを服用していた。亡○は,平成22年2月1日以降,被告クリニックに通院するようになり,同月5日,バイアスピリンに代えてワーファリンを処方され,以後,ワーファリンを継続的に服用していた。亡○は,約1か月に1回の頻度で被告クリニックに通院しており,概ね2ないし3か月に1回の頻度で血液凝固能検査を受けていた。(争いのない事実,乙A1〔3-1,4頁〕,甲A2の3,弁論の全趣旨)
イ ★医師は,令和3年以降,被告クリニックにおいて亡○を担当するようになった。この頃,亡○のPT-INRの値は治療域(PT-INRの値が1.6ないし2.6)に入っており,TTR(PTINRの値が治療域に入っている割合)は100%であった。亡○のPT-INRの値は,同年6月9日には1.87,同年9月27日には1.95であった。★医師は,同日,亡○に対し,ワーファリンに代えてイグザレルトを処方することを提案した。(争いのない事実,甲A2の3,甲B5〔54頁〕,乙A1〔87頁〕,弁論の全趣旨)
ウ ★医師は,令和3年10月27日,亡○に対し,ワーファリンの服用を中止する旨指示し,1か月後の次回の診察日に血液凝固能検査を行った上でイグザレルトを処方する旨説明した。また,★医師は,同日,亡○に対し,降圧剤であるアムロジピンを処方した。なお,★医師は,同日の診察の際,亡○に対し,血液凝固能検査を実施していない。(争いのない事実,乙A1〔88頁〕)
エ 亡○は,令和3年11月11日,吐き気や眼痛を訴えてP病院(以下「P病院」という。)に救急搬送された。同病院の医師は,亡○に対し,解熱鎮痛剤であるカロナールと制吐剤であるプリンペランを処方し,亡○は帰宅した。(甲A3〔30ないし34頁〕,弁論の全趣旨)
オ 亡○は,令和3年11月12日,被告クリニックを受診し,P病院に救急搬送されたことを伝えた。★医師は,同日,亡○に対し,イグザレルトを処方した(争いのない事実,乙A1〔88頁〕)。
亡○は,同日夜,布団に倒れこみ,P病院に救急搬送され,同病院に入院した。同病院の医師は,亡○に対し,頭部CT検査及びMRI検査を行い,心原性脳梗塞である旨の診断をした。(甲A3〔12,45,46,60,63,64頁〕)
カ 亡○は,重度の左片麻痺,構音障害が残存する状態になり,令和3年12月27日,療養及びリハビリテーションを目的としてQ病院(以下「Q病院」という。)に転院した。亡○は,令和4年2月8日,R病院(以下「R病院」という。)に転院した。その後,亡○は,一時的に介護老人保健施設S(以下「S」という。)に入所したが,再度R病院に入院し,同年6月10日,仙骨部褥瘡感染を原因とする敗血症により死亡した。(甲A1,甲A3〔81-1頁〕,甲A4の1,甲A5の1,弁論の全趣旨)
(3) 医学的知見
ア 心房細動は,不規則な心房興奮が450ないし600/分の高頻度で生じ,心拍数が全く不規則となる上室性不整脈である。心房細動により,心内に血液のよどみができ,血栓が生じやすくなる。(甲B2〔2頁〕,乙B20〔509頁〕) イ 心原性脳梗塞(心原性脳塞栓症)は,心内で形成されたり,あるいは心内を経由した栓子が脳血管を閉塞したりすることで発症する(乙B19〔225頁〕)。
ウ(ア)ワーファリンは,血栓塞栓症の治療及び予防に用いられる抗凝固薬である(甲B2)。ワーファリンの添付文書(甲B3)には,要旨次のとおりの記載がある。
a ワーファリンは,血液凝固能検査(プロトロンビン時間及びトロンボテスト)の検査値に基づいて投与量を決定し,血液凝固能管理を十分に行いつつ使用する薬剤である(甲B3〔1頁〕)。
b 急に投与を中止した場合,血栓を生じるおそれがあるので,徐々に減量すること(甲B3〔2頁〕)。
c 副作用として,脳出血等の臓器内出血等を生ずることがある(甲B3〔6頁〕)。
(イ)ワーファリンの臨床的に意義のある抗凝固効果は,投与後12ないし24時間後に初めて発現し,十分な効果は36ないし48時間後に得られる。また,その作用はその後48ないし72時間持続する。(甲B17)
エ イグザレルトは,非弁膜症性心房細動患者における虚血性脳卒中及び全身性塞栓症の発症抑制や静脈血栓塞栓症の治療及び再発抑制に用いられ,DOACと呼称される直接阻害型経口抗凝固薬である(甲B4〔1頁〕,甲B5〔44頁〕)。
イグザレルトの添付文書(甲B4)には,要旨次のとおりの記載がある。
(ア)警告 イグザレルトの投与により出血が発現し,重篤な出血の場合には,死亡に至るおそれがある。イグザレルトの使用にあたっては,出血の危険性を考慮し,投与の適否を慎重に判断すること。イグザレルトによる出血リスクを正確に評価できる指標は確立されていないため,投与中は,血液凝固に関する検査値のみならず,出血や貧血等の徴候を十分に観察すること。これらの徴候が認められた場合には,直ちに適切な処置を行うこと。(甲B4〔1頁〕)
(イ)ワーファリンからイグザレルトに切り替える必要がある場合は,ワーファリンの投与を中止した後,PT-INR等,血液凝固能検査を実施し,治療域の下限以下になったことを確認した後,可及的速やかにイグザレルトの投与を開始すること(甲B4〔2頁〕)。
(ウ)イグザレルトからワーファリンへの切替え時において抗凝固作用が不十分になる可能性が示唆されているので,抗凝固作用が維持されるよう注意し,PT-INR等,血液凝固能検査の値が治療域の下限を超えるまでは,ワーファリンと本剤を併用すること。なお,抗凝固剤とイグザレルトは併用注意とされ,両剤の抗凝固作用が相加的に増強され,出血の危険性が増大するおそれがあるので,観察を十分に行い,注意することとされている。(甲B4〔2,4頁〕)
オ 日本循環器学会及び日本不整脈心電学会が作成した「2020年改訂版 不整脈薬物治療ガイドライン」(甲B5,乙B1)には,要旨次のとおりの記載がある。
(ア)非弁膜症性心房細動では,血栓塞栓症の危険因子が集積すると心原性脳梗塞の発症率が上昇するため,血栓塞栓症に対するリスク評価を行った上で適切な抗凝固療法を選択することが推奨される。そのリスク評価指標であるCHADS2スコアは,①心不全,②高血圧(収縮期血圧が160mmHg以上とその既往。本ガイドラインでは140/90mmHg以上又はその既往を高血圧とする。),③高齢(75歳以上),④糖尿病,⑤脳卒中又はTIAの既往をスコア化し(①~④につき各1点,⑤につき2点),0点を低リスク,1点を中等度リスク,2点以上を高リスクとして脳梗塞のリスクを評価する手法である。米国の調査では,ワーファリン投与がない慢性心房細動患者のCHADS2スコア別の補正年間脳梗塞発症率は,0点から順に1.9%,2.8%,4.0%,5.9%,8.5%,12.5%,18.2%と報告されている。日本の調査では,抗凝固療法未施行例の年間脳梗塞発症率は,0点から順に0.5%,0.9%,1.5%,2.7%,6.1%,3.9%,7.2%と報告されている。(甲B5〔44ないし46頁〕)
(イ)心房細動患者において,出血のリスク評価を行うことは,抗凝固療法の実施を決定する上で,あるいは抗凝固療法中の出血性合併症予防のために重要である。出血のリスク指標であるHAS-BLEDスコアは,①高血圧(収縮期血圧が160mmHg以上の血圧管理不良例),②腎機能障害,③肝機能障害,④脳卒中,⑤出血,⑥不安定なINR,⑦高齢(65歳以上),⑧薬剤,⑨アルコールをそれぞれ1点としてスコア化し,3点以上を高リスクとして出血のリスクを評価する手法である。HAS-BLEDスコア別の補正年間大出血発症率は,0点から5点以上の群の順に,1.13%,1.02%,1.88%,3.74%,8.70%,12.50%である。(甲B5〔50頁〕)
(ウ)非弁膜症性心房細動におけるINRの管理目標は,INR1.6ないし2.6であり,この範囲が塞栓症と大出血を最小限とする至適治療域とされる。投与期間のうち治療域内にINRがコントロールされた期間の割合をINR至適範囲内時間(TTR)という。TTRはなるべく高く保つべきであり,予後改善の観点からはTTR60%以上,DOACと同等以上の医療費効果を得る観点からはTTR65ないし90%以上が目安となるとの報告もあるが,これらはTTR100%を目指した結果としての最低限の許容範囲の目安と考えるべきである。(甲B5〔54頁〕)
3 争点
(1) ★医師に,令和3年10月27日以降,亡○に対し,2ないし3日ごとに血液凝固能検査を実施してPT-INRの値を確認し,その値が最低でも1.6以下になったときは,速やかにイグザレルトを処方するべきであったのにこれを怠った注意義務違反が認められるか(争点(1))。
(2) (1)の注意義務違反と原告らの損害との因果関係(争点(2))
(3) 原告らの損害(争点(3))
4 争点に関する当事者の主張の要旨
(1) 争点(1)(血液凝固能検査を実施しイグザレルトを処方するべきであったのにこれを怠った注意義務違反の有無)について
(原告らの主張の要旨)
ワーファリンの抗凝固効果は,服用を中止した後,2,3日で効果が消失する。そして,ワーファリンの投与を受けていた心房細動患者がワーファリンを休薬した場合,一時的に血液凝固能が亢進し血栓塞栓症のリスクが高まる(いわゆるリバウンド現象)。
よって,★医師は,心室細動のためワーファリンの服用を継続していた亡○に対し,ワーファリンの処方を止めてイグザレルトに切り替えるに当たっては,ワーファリン服用中止3日後以降は,定期的に血液凝固能検査を行い,血液の固まりにくさを示すPT-INRの値が1.6を下回った時点で速やかにイグザレルトを投与すべき注意義務があった。しかし,★医師は,令和3年10月27日に亡○に対し,イグザレルトへの切替えを目的としてワーファリンの服用中止を指示した後,定期的に血液凝固能検査を実施しなかった。
(被告の主張の要旨)
イグザレルトの添付文書上,ワーファリンからイグザレルトに切り替えるに当たり,休薬期間を設けることが想定されているところ,その期間については,明確には定まっていない。また,添付文書上,ワーファリンの漸減を推奨する記述はなく,リバウンド現象には医学的根拠がない。そして,ワーファリンの休薬期間については,脳梗塞リスクのみならず,出血リスクも考慮することが医療水準である。
亡○の脳梗塞リスクは,CHADS2スコア2点(75歳以上,高血圧)であり,年間脳梗塞発症率は1.5%とされている。また,亡○の出血リスクは,HAS-BLEDスコア2点(65歳以上,高血圧)であり,年間大出血発症率は1.88%である。また,休薬前1年間の亡○のTTR(PT-INRの値が治療域に入っている割合)は100%であり,ワーファリンがかなり効いていたということができる。
このように,亡○は,脳梗塞のリスクよりも出血のリスクが高く,ワーファリンがかなり効いていた経過であった。そこで,★医師は,出血リスクをしっかり抑えてからイグザレルトの服用を開始することとして,ワーファリンを休薬してから1か月後の受診日に血液凝固能検査を実施し,検査結果にかかわらずイグザレルトを処方することを予定していた。かかる判断が医療水準から逸脱した不合理な判断であるとはいえない。なお,★医師は,令和3年10月27日のワーファリン休薬の指示の際,脳卒中のリスクである高血圧に対し,降圧剤であるアムロジピンを処方している。
以上によれば,★医師が原告ら主張の注意義務を負うとはいえない。
(2) 争点(2)(因果関係)について
(原告らの主張の要旨)
亡○は,心原性脳梗塞を発症し高次脳機能障害で寝たきりとなり,その後の全身症状の悪化に伴い褥瘡による感染症からの敗血症により死亡した。
亡○は,12年間にわたりワーファリンを服用し,PT-INRは良好にコントロールされ,降圧剤により収縮期血圧は概ね130mmHg以下が保たれていた。
亡○は,ワーファリンの服用を中止した令和3年10月27日時点でPT-INRの値が2.0未満であったと推測される。そして,ワーファリンの服用を中止した場合,約4日間でPT-INRの値が2.0ないし3.0から1.5まで低下すると考えられる。
そうすると,★医師が前記(1)の注意義務を果たしており,ワーファリンの服用中止以降,亡○に対し,2ないし3日ごとに血液凝固能検査を実施してPT-INRの値が確認されていれば,10月29日又は30日頃(遅くともその2ないし3日後)にはPT-INRの値が1.6以下であることが判明し,イグザレルトが処方されていた。そして,その時点でイグザレルトが処方されていれば,亡○が心原性脳塞栓症を発症しなかった高度の蓋然性があると認められる。
(被告の主張の要旨)
ワーファリンからイグザレルトに切り替える場合,少なくとも数日の間は抗凝固薬の未投与期間が不可避的に生じる。よって,本件においては,実際の休薬期間(令和3年10月27日から同年11月12日まで)から不可避的に休薬する期間の数日を差し引いた日数においてイグザレルトが投与されていた場合の高度の蓋然性の有無が問題となる。
そして,①心原性脳塞栓症の血栓の原因及び因子に鑑みても,抗凝固薬は,あくまで脳梗塞の予防の位置づけであり,その効果には限界があり,CHADS2スコアが2点の患者に1か月ワーファリンを中止した場合の脳梗塞発症リスクは約0.3%にすぎないこと,②ワーファリンによりPTINRの値がコントロールされている場合とそうでない場合の脳梗塞発症率の差は1%強にすぎないこと,③本件は,脳卒中の予防措置としてアムロジピンが投与されてもなお脳梗塞が発症した事案であること等に鑑みれば,仮に,令和3年10月27日にワーファリンを休薬してから数日後にイグザレルトが処方されていたとしても,亡○が脳梗塞を発症しなかった高度の蓋然性があるとは認められない。
(3) 争点(3)(原告らの損害)について
(原告らの主張の要旨)
ア 亡○の損害
(ア)死亡慰謝料 2800万0000円
(イ)年金逸失利益 702万1709円
(計算式)
216万0393円(年金受給額)×5.417(平均余命の6年間のライプニッツ係数)×(1-生活費控除0.4)=702万1709円
(ウ)治療関連費 114万6570円
(エ)入院慰謝料 266万0000円
イ 原告●固有の損害
(ア)固有慰謝料 100万0000円
(イ)死亡診断書作成費用 2万0000円
(ウ)葬儀関連費用 134万0000円
(エ)カルテ開示請求費用 2万4530円
(オ)弁護士費用 210万0000円
ウ 原告▲及び原告■固有の損害
(ア)固有慰謝料 各50万0000円
(イ)弁護士費用 各105万0000円
(被告の主張の要旨)
否認し争う。
死亡慰謝料については,高額に過ぎる。また,亡○は,かなり以前から禁煙指導がされていたにもかかわらず喫煙を継続していた。喫煙は脳梗塞のリスク因子の一つとされているから,この点を損害額の算定において考慮すべきである。
原告●が受給した遺族年金について,口頭弁論終結時における支給確定額をもって損益相殺されるべきである。
第3 当裁判所の判断
1 争点(1)(血液凝固能検査を実施しイグザレルトを処方するべきであったのにこれを怠った注意義務違反の有無)について
(1)ア イグザレルトの添付文書には,①ワーファリンからイグザレルトに切り替える必要がある場合は,ワーファリンの投与を中止した後,PT-INR等,血液凝固能検査を実施し,治療域の下限以下になったことを確認した後,可及的速やかにイグザレルトの投与を開始すべき旨の記載(以下「本件記載」という。)や,②イグザレルトからワーファリンへの切替え時において抗凝固作用が不十分になる可能性が示唆されているので,抗凝固作用が維持されるよう注意し,血液凝固能検査の値が治療域の下限を超えるまでは,ワーファリンとイグザレルトを併用すべき旨の記載,③抗凝固剤とイグザレルトを併用する場合には,両剤の抗凝作用が相加的に増強され,出血の危険性が増大するおそれがあるので,観察を十分に行い,注意する必要がある旨の記載がある(前記前提事実(3)エ(イ)(ウ))。また,ワーファリンの添付文書には,〈ア〉ワーファリンは,血液凝固能検査の検査値に基づいて投与量を決定し,血液凝固能管理を十分に行いつつ使用する薬剤である旨の記載や,〈イ〉急に投与を中止した場合,血栓を生じるおそれがあるので,徐々に減量すべき旨の記載がある(前記前提事実(3)ウ(ア)ab)。
上記各記載からは,ワーファリンを継続服用している患者に対し,ワーファリンに代えてイグザレルトを処方するに当たっては,休薬によりワーファリンの抗凝固作用が消失した後,可及的速やかにイグザレルトが服用されないままでいると脳梗塞のリスクが高まる一方で,ワーファリンの抗凝固作用が十分残存している間にイグザレルトが服用されると出血のリスクが高まるという趣旨を読み取ることができる。そして,上記各リスクのいずれかが高まることのないよう,休薬後,血液凝固能検査を実施してイグザレルトを処方するタイミングを判断することが求められているものと解される。
また,ワーファリンの臨床的に意義のある抗凝固効果は,投与後,84時間ないし120時間持続するとされる(前記前提事実(3)ウ(イ))。そうすると,イグザレルトへの切替えを目的としてワーファリンを休薬する場合,休薬から遅くとも5日が経過した後は,ワーファリンによる抗凝固作用は消失し,イグザレルトを服用しないことによる脳梗塞のリスクが高まる一方で,イグザレルトの服用による出血のリスクは減少すると考えることができる。
以上を前提とすれば,本件記載は,ワーファリンを休薬してから遅くとも5日以内には血液凝固能検査を実施して,血液凝固能が治療域の下限を下回ったことを確認した場合には,可及的速やかにイグザレルトの投与を開始することを求めるものと解するのが相当である。
上記の理は,開業医を対象として心房細動に対する抗凝固療法を解説した複数の医学文献(甲B13ないし15)に,ワーファリンからDOACへの切替えについて,ワーファリン服用中のPTINRの値に応じて,①ワーファリンの処方を中止し,翌日からDOACを処方する,②2ないし3日ごとに血液凝固能検査を実施してPT-INRの値を測定し,PT-INRの値が低下した時点でDOACを投与する,③ワーファリンを減量して投与し,PT-INRの値が低下した時点でDOACを処方するといった手順が記載されている(甲B13〔150頁〕,甲B14〔164頁〕,甲B15〔64頁〕)ことからも裏付けられる。
イ 前記アで判示した本件記載の解釈に基づくと,★医師は,令和3年10月27日に亡○にワーファリンの服用を中止する旨の指示をしたのであるから,その5日後の同年11月1日頃までには,亡○に対し血液凝固能検査を実施し,PT-INRの値が治療域の下限を下回る場合には,可及的速やかにイグザレルトを処方する注意義務(以下「本件注意義務」という。)を負っていたと認められる。
しかし,★医師は,令和3年10月27日,亡○に対しワーファリンの服用を中止する旨の指示をした後,次回の診察日を通常の1か月後とし,その間血液凝固脳検査を実施しなかった(前記前提事実(2)ウ)。よって,★医師には本件注意義務を怠った注意義務違反が認められる。
(2) これに対し,被告は,亡○は,CHADS2スコアにおける脳梗塞のリスクよりもHAS-BLEDスコアにおける出血のリスクが高く,ワーファリンがかなり効いていた経過であったから,★医師は,出血リスクをしっかり抑えてからイグザレルトの服用を開始することとして,1か月先の受診日にPT-INRの値を検査し,検査結果にかかわらずイグザレルトを処方することを予定したのであって,かかる判断が医療水準から逸脱した不合理な判断であるとはいえない旨主張する。
しかしながら,CHADS2スコアにおける年間脳梗塞発症率は,ワーファリン投与がない慢性心房細動患者についてのものであるから(前記前提事実(3)オ(ア)),平成22年2月から継続的にワーファリン投与を受けていた亡○(前記前提事実(2)ア(イ))には該当しない。また,HAS-BLEDスコアにおいてリスク要素とされる高血圧は,収縮期血圧が160mmHg以上の血圧管理不良例(高血圧の既往が含まれるとは認められない。)とされる(前記前提事実(3)オ(イ))。亡○の令和3年10月27日の血圧は,120/75mmHgである(乙A1〔88頁〕)から,HAS-BLEDスコアにおける高血圧に該当するとは認められず,高齢(65歳以上)のリスク因子に該当するにすぎない。そして,亡○には手術の予定があるなどといった出血のリスクをより重視すべき事情があったとも認められない(亡○に便潜血の既往があったとしても,殊更に重視すべき事情とは認められない。)。また,そもそも,前記(1)アで判示したとおり,ワーファリンの臨床的に意義のある抗凝固効果は,投与後,84時間ないし120時間持続するとされるのであるから,ワーファリンの休薬から5日が経過した後は,ワーファリンによる抗凝固作用は低下し,イグザレルトの服用を開始することによる出血のリスクは減少している。その他,本件全証拠によっても,ワーファリンを継続的に服用する慢性心房細動患者に対しワーファリンに代えてイグザレルトを処方するに当たり,血液凝固能検査により血液凝固能を確認することなく,1か月間の休薬期間を置くことが合理的であるとする医学的知見は認められない。結局のところ,★医師は,CHADS2スコアにより亡○の脳梗塞のリスクが低いと考え,通常の診察日が1か月後であることから,特段の積極的な理由なく漫然と次の診察日を1か月後に設定し,同日に血液凝固能検査を行うこととしたにすぎない(証人★医師〔19,20頁〕)。かかる判断は,前記(1)アで判示した本件記載の趣旨に反するものといえ,医学的合理性を欠くものというほかない。
以上によれば,被告の上記主張は前記(1)の判断を左右するものとは認められない。
2 争点(2)(因果関係)について
(1)ア ★医師が本件注意義務を尽くしていた場合,亡○が令和4年6月10日になお生存していた高度の蓋然性が認められるかを検討する。
亡○のPT-INRの値は,令和3年6月9日には1.87,同年9月27日には1.95であったこと(前記前提事実(2)イ)からすれば,同年10月27日(ワーファリンの最終服用日)の時点でも同程度の値であったことがうかがわれる。そして,ワーファリンの臨床的に意義のある抗凝固効果は,投与後,84時間ないし120時間持続するとされること(前記前提事実(3)ウ(イ))に加え,PT-INRの値が2.0ないし3.0の場合は,値が1.5以下になるまでワーファリンの休薬後約4日を要するとされていること(甲B13〔161頁〕)に鑑みれば,遅くとも同年11月1日の時点で,亡○のPT-INRの値は治療域(1.6)を下回っていたと考えるのが相当である。
★医師が本件注意義務を尽くしており,遅くとも令和3年11月1日までに亡○に対し血液凝固能検査が行われた場合には,その結果は同月2日には判明し(証人★医師〔6,7頁〕),★医師は,同日の時点で亡○のPT-INRの値が治療域を下回っていることを確認することができた。前記1で判示したとおり,★医師は,亡○のPT-INRの値が治療域を下回ったことを確認した時点で,可及的速やかにイグザレルトを処方する注意義務を負うのであるから,★医師が本件注意義務を尽くしていた場合,亡○は,同日頃にはイグザレルトの処方を受けていたこととなる。
イ 前記アに対し,実際の転帰をみると,亡○は,同年10月27日にワーファリンの服用を中止した後,同年11月12日にイグザレルトを服用することとなったが,同日,心原性脳梗塞を発症して入院し,令和4年6月10日,仙骨部褥瘡感染を原因とする敗血症により死亡している(前記前提事実(2)オ,カ)。
ワーファリン及びイグザレルトは,いずれも,血栓塞栓症の治療及び予防等に用いられる抗凝固薬であるところ(前記前提事実(3)ウ(ア),エ),亡○は,平成22年2月5日から継続的にワーファリンを服用し,TTRは良好に保たれていた(前記前提事実(2)ア(イ))。そして,亡○は令和3年10月27日のワーファリンの休薬後,手術等の身体侵襲を受けたものではなく,本件注意義務違反の他に心原性脳梗塞の発症につながる直接的な要因があったとはうかがわれない。以上の事情によれば,★医師が本件注意義務を尽くし,亡○が同年11月2日頃にイグザレルトを服用していた場合,亡○は,心原性脳梗塞を発症しなかったか,発症したとしてもその予後は実際の転帰よりも改善されていたということができるから,亡○が令和4年6月10日になお生存していた高度の蓋然性が認められる。
(2) これに対し,被告は,①心原性脳塞栓症の血栓の原因及び因子に鑑みても,抗凝固薬は,あくまで脳梗塞の予防の位置づけであり,その効果には限界があり,CHADS2スコアが2点の患者に1か月ワーファリンを中止した場合の脳梗塞発症リスクは約0.3%にすぎないこと,②ワーファリンによりPT-INRの値がコントロールされている場合とそうでない場合の脳梗塞発症率の差は1%強にすぎないこと,③本件は,脳卒中の予防措置としてアムロジピンが投与されてもなお脳梗塞が発症した事案であること等を指摘して,因果関係が認められない旨主張する。
しかしながら,前記1(2)判示のとおり,被告が指摘する脳塞栓症の発症リスクの統計は,ワーファリンの投与を受けていない者についてのものである。亡○は,平成22年2月5日から継続的にワーファリンを服用し,TTRは良好に保たれていた(前記前提事実(2)ア(イ))。そして,ワーファリンの添付文書には,急に投与を中止した場合,血栓を生じるおそれがあるので,徐々に減量する旨の記載があること(前記前提事実(3)ウ(ア)b)に照らせば,これをリバウンド現象というかはともかく,被告が指摘する脳塞栓症のリスクの統計は原告には当てはまらないというべきである。
確かに,本件注意義務が尽くされたとしても,亡○が心原性脳梗塞を発症した可能性を完全に否定することはできない。しかしながら,イグザレルトは,全身性塞栓症の発症抑制や静脈血栓塞栓症の治療に用いられる(前記前提事実(3)エ)のであるから,遅くとも令和3年11月1日までに血液凝固能検査が行われ,その結果に基づき可及的速やかにイグザレルトが処方されていた場合,同月12日に服用した場合と比して症状が抑制され,予後が改善されていた高度の蓋然性が認められるから,被告の主張を踏まえても,亡○が令和4年6月10日になお生存していた高度の蓋然性は否定し得ない。なお,被告が提出する医学論文にも,ワーファリンが投与され治療域(PT-INRの値が2.0以上)の場合,心原性脳梗塞を発症した例が少なく,リスクが抑えられると考えられ,治療域内にコントロールされながら脳梗塞を発症した例では,治療域未満や未治療の例に比して機能予後,生命予後が良好であったことが報告されているとの記載が認められる(乙B22〔315頁〕)。
以上によれば,被告の上記主張は前記(1)の判断を左右するものとは認められない。
3 争点(3)(原告らの損害)について
(1) 亡○の損害
ア 死亡慰謝料(近親者の慰謝料を含む。)
2500万0000円
前記2で判示したとおり,★医師は,特段の積極的な理由なく,本件注意義務に違反して,亡○にワーファリンの服用を中止する旨の指示をした後,次回の診察日を通常の1か月後とした。★医師のかかる判断に医学的合理性はなく,本件注意義務違反の程度は重大であると評価すべきである。このことに加え,亡○の年齢等本件に顕れた諸般の事情を考慮すると,亡○の死亡慰謝料は,近親者の慰謝料を含めて2500万円と認めるのが相当である。
イ 年金逸失利益 585万1424円
亡○は,年額216万0393円の年金を受給していた(甲C9の1)ことから,生活費控除率を50%,平均余命を6年間とすると,亡○の年金逸失利益として585万1424円を損害として認めるのが相当である。
(計算式)
216万0393円×5.417(平均余命6年のライプニッツ係数)×(1-0.5)=585万1424円(小数点以下は切り下げ。)
ウ 治療費用等 82万3170円
次のとおり,治療費用等として82万3170円を亡○の損害として認めるのが相当である。
(ア)P病院(甲C2) 16万0580円
(イ)Q病院(甲C3) 22万1599円
(ウ)R病院(甲C4) 35万9320円
(エ)S(甲C5) 8万1671円
(オ)合計 82万3170円
エ 入院雑費等 31万6500円
亡○は,①P病院に令和3年11月12日から同年12月27日まで(甲C2),②Q病院に同月27日から令和4年2月8日まで(甲C3),③R病院に同月8日から同年5月2日まで及び同月25日から同年6月10日まで(甲C4)入院し,④Sに同年5月2日から同月25日まで(甲C5の2)入所していた。上記期間(合計211日間)に対する入院雑費として31万6500円を亡○の損害として認めるのが相当である。なお,本件注意義務違反により亡○に重度の左片麻痺等が残存したことに鑑みれば,介護老人保健施設であるSへの入所はR病院への入院期間中に一時的に入所したものというべきであるから,入院と同様に扱うのが相当である。そのほか,原告は,Q病院からR病院への福祉タクシー代(6900円)を請求するが,亡○が同金額を支出したことを裏付ける的確な証拠はなく,かかる請求は認められない。
(計算式)
日額1500円×211日=31万6500円
オ 入院慰謝料 266万0000円
前記エの入院等の日数(合計211日)に対する慰謝料として266万0000円を亡○の損害として認めるのが相当である。
カ 小計 3465万1094円
(2) 原告ら各自の損害
ア 原告●の損害
(ア)相続 1732万5546円
原告●は,前記(1)の亡○の損害(近親者慰謝料を含む。)合計3465万1094円について,法定相続分に従い,1732万5546円(原告ら内部の調整のため1円を減じた。)を相続した。
(イ)死亡診断書作成費用 2万0000円
証拠(甲C10)によれば,死亡診断書作成費用として2万0000円を原告●の損害として認めるのが相当である。
(ウ)葬儀関連費用 134万0000円
証拠(甲C8の1ないし4)及び弁論の全趣旨によれば,葬儀関連費用として134万0000円を原告●の損害として認めるのが相当である。
(エ)カルテ開示請求費用 2万4530円
証拠(甲C6,7)によれば,カルテ開示請求費用として2万4530円円を原告●の損害として認めるのが相当である。
(オ)損益相殺
証拠(甲C12)によれば,原告●は,令和4年9月から令和5年4月までの間,遺族厚生年金合計91万3101円を受給し,以降,令和6年4月までの間,合計124万0572円を受給することが確定していることが認められる。よって,前記(1)イの年金逸失利益のうち原告●が相続した292万5712円から上記遺族年金受給額の合計である215円3673円を損益相殺により控除する。
(カ)小計 1655万6403円
(キ)弁護士費用 165万5640円
(ク)合計 1821万2043円
イ 原告▲及び原告■の損害
(ア)相続 各866万2774円
原告▲及び原告■は,前記(1)の亡○の損害(近親者慰謝料を含む。)合計3465万1094円について,法定相続分に従い,各866万2774円を相続した。
(イ)弁護士費用 各86万6277円
(ウ)合計 各952万9051円
(3) 被告の主張
被告は,亡○が禁煙指導を受けながら喫煙を続けたことを損害額の算定において考慮すべき旨主張する。しかしながら,CHADS2スコアにおいて喫煙が脳梗塞のリスク因子とされていないことに鑑みれば(前記前提事実(3)オ(ア)),亡○の喫煙と心原性脳梗塞の発症との関係は不明というほかなく,被告の主張は採用できない。その他,被告は縷々主張するが,いずれも原告らの損害を減額する事情とは認められない。
4 まとめ
以上によれば,被告は,使用者責任により,原告●に対しては,1821万2043円及びこれに対する不法行為の日の後である令和4年6月10日から支払済みまで民法所定の年3分の割合による遅延損害金,原告▲及び原告■に対しては,各952万9051円及びこれに対する前同日から支払済みまで各民法所定の年3分の割合による遅延損害金の各支払義務を負う。
第4 結論
よって,原告らの請求は主文掲記の限度で理由があるからこれらを認容し,その余はいずれも理由がないからこれらを棄却することとして,主文のとおり判決する。なお,仮執行免脱宣言については,相当でないからこれを付さないこととする。(裁判長裁判官桃崎剛,裁判官西臨太郎,裁判官山川勇人)