大阪高等裁判所判決 令和3年(ネ)第995号
主 文
1 原判決を次のとおり変更する。
2 被控訴人は、控訴人に対し、6641万1365円及びこれに対する平成28年10月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 控訴人のその余の請求を棄却する。
4 訴訟費用は、第1、2審を通じて、これを10分し、その3を控訴人の負担とし、その余を被控訴人の負担とする。
5 この判決は、第2項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、控訴人に対し、9814万7751円及びこれに対する平成28年10月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
(以下、略称は、特に断らない限り、原判決の例による。)
1 本件は、控訴人が、平成21年7月29日、被控訴人の設置運営する独立行政法人●機構▲医療センター(被控訴人病院)において、もやもや病(ウィリス動脈輪閉塞症)に対する間接吻合法(EDAS)による血行再建術(本件手術)を受けたところ、術後、右半身麻痺、失語症等の後遺障害が生じたことについて、被控訴人に対し、本件手術を担当した医師ら(被控訴人医師ら)に本件手術における血圧管理上の注意義務違反があった旨主張し、診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償請求として、9814万7751円及びこれに対する訴状送達日の翌日である平成28年10月25日から支払済みまで平成29年法律第44号による改正前の民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
原審が、被控訴人医師らに血圧管理上の注意義務違反はなかった旨認定判断し、控訴人の請求を棄却したところ、控訴人は、原判決を不服として控訴を提起した。
2 前提事実(争いのない事実及び後掲各証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定することのできる事実。以下、書証番号は特記しない限り枝番を含む。)
(1)当事者等
ア 控訴人は、○○月○○日生まれの男性であり、平成21年7月16日、もやもや病の治療のため被控訴人病院に入院し、同月29日、本件手術を受けた。
イ 被控訴人は、独立行政法人として、奈良市(以下略)において被控訴人病院を開設し、運営している。
(2)本件手術に至る経緯(乙▲、2)
ア 控訴人は、遅くとも平成18年頃以前より日常的に高血圧の症状があり、同年頃から、時々、右視野の一部が欠ける症状を自覚するようになった。
イ 控訴人は、平成21年7月15日(以下、特に断りのない限り、日時は平成21年である。)、□病院を受診したところ、視野障害が認められ、脳機能に異常が生じている疑いがある旨の指摘を受け、被控訴人病院の紹介を受けた。
ウ 控訴人は、7月16日、被控訴人病院の脳神経外科を受診し、■医師(■医師)の診察を経て、被控訴人病院に入院した。控訴人の入院中の主治医については、引き続き、■医師が担当することとされた。
エ 控訴人は、7月24日、■医師から、脳血管造影検査の結果、もやもや病を発症している旨告知され、外科手術(血行再建術)の必要性及び手術方法(間接吻合術)等についての説明を受け、同月27日、本件手術を受けることに同意した。
(3)本件手術の実施状況等(乙▲)
ア 控訴人は、7月29日、本件手術を受けた。
本件手術においては、■医師が執刀医を、被控訴人病院の脳神経外科所属の◆医師(◆医師)が第1助手をそれぞれ担当し、麻酔管理については、J1病院から派遣された◇医師(◇医師)が担当した。
イ 本件手術の麻酔時間は、午前11時2分から午後7時25分(合計8時間23分)であり、手術時間は、午後0時29分から午後7時5分(合計6時間36分)であった。本件手術の麻酔時間内における控訴人の血圧状況(血圧値の推移等)は、原判決別紙記載のとおりである。
ウ 控訴人は、本件手術の終了後、気管挿管の抜去を受け、午後8時頃、病室に戻った。
(4)本件手術後の状況(乙▲)
ア 控訴人は、病室に戻った頃から呂律異常や手のしびれ等が現れ、7月30日午前0時30分頃、頭部MRI検査を受けたところ、左後頭葉から側頭葉にかけて超急性期脳梗塞の所見が認められ、その後の頭部CT検査では、脳浮腫(脳腫脹)を生じていることが認められた。
イ 控訴人は、同月31日、上記脳状態の悪化を防止するため、■医師の執刀により外減圧手術を受け、8月3日、△病院に転院し、脳保護のための低体温療法等を受けたが、顕著な改善は得られず、右半身の麻痺や失語症等の症状が見られるようになった。その後、控訴人は、H1病院に転院し、リハビリ治療等を受けたが、上記症状は改善されず、平成23年4月5日、症状固定との診断を受けた(甲▲)。
3 本件の争点
(1)被控訴人医師らによる血圧管理上の注意義務違反の有無(争点1-血圧管理上の注意義務違反)
(2)上記注意義務違反と控訴人に残存した後遺障害との相当因果関係の有無(争点2-相当因果関係)
(3)控訴人の損害額(争点3-控訴人の損害額)
4 争点に関する当事者の主張
(1)争点1(血圧管理上の注意義務違反)について
【控訴人の主張】
ア もやもや病患者の脳は、脳血流を一定に保つ自動調節能が障害されていることから、基本的に虚血状態にあり、血圧の低下は脳血流の低下に直結し、脳梗塞の発症、拡大を引き起こす危険がある。
したがって、もやもや病患者に対する手術中の血圧管理に当たっては、脳血流をこれ以上低下させないようにするため、普段の血圧から逸脱させない範囲で血圧管理を行う必要があり、特に、高血圧症を併発している患者の場合、高血圧により脳血流を限界的に維持している状態にあり、虚血性発作の有無が確認できない全身麻酔中の低血圧は致命的な結果につながりかねない。
被控訴人は、もやもや病患者の場合、術中に脳出血を引き起こす危険があるとして、それを抑える必要がある旨主張するが、もやもや病による脳出血は、高血圧によって生じるものではなく、もやもや病による血管の脆弱性を原因とするものであり、血圧を低く管理することによって脳出血の危険を抑えることにはならない。
したがって、もやもや病患者に対する手術中の血圧管理については、血圧の低下こそ注意すべきであり、被控訴人医師らは、本件手術中の血圧管理において、控訴人に対し、普段の血圧、すなわち、術前の血圧状態を下回らないよう維持すべきであった。
イ 控訴人は、以前より日常的に高血圧であり、被控訴人病院に入院後も、ほぼ連日、収縮期血圧150を超える血圧状態にあり、降圧剤の効果も低く、術前に計測された最も低い収縮期血圧値も120前後であったことからすると、被控訴人医師らは、本件手術中の血圧管理として、少なくとも収縮期血圧120以上の血圧状態を維持すべきであった。しかしながら、被控訴人医師らは、本件手術を実施するに当たり、術前の最低血圧値よりさらに約2割も低い「100」を血圧目標値として設定し、本件手術の前後8時間を超える麻酔時間にわたって、同程度の血圧状態を維持したのであって、術中の血圧管理を誤った過失がある。
【被控訴人の主張】
ア 控訴人は、本件手術中の血圧管理については、「普段の血圧」から逸脱しないような血圧状態を維持すべきであったとして、少なくとも術前(入院中)に計測された最低血圧値である収縮期血圧「120」を下回ることがないようにすべきであった旨主張するところ、「普段の血圧」というあいまいな概念は、術中の血圧管理上、臨床医学の実践における基準となり得るものではなく、参考程度にすぎない。そして、本件手術の当時はもとより、現時点においても、もやもや病患者に対する手術中の血圧管理として、どのような血圧に維持すればよいのかの指針となるべき科学的、臨床的に信頼できる報告等は存在せず、術前の収縮期血圧を下回らないよう維持すべき注意義務はない。
イ また、控訴人は、被控訴人病院に入院前より高血圧状態にあり、右視野の一部が欠損するなどの脳虚血症状が見られ、入院後も収縮期血圧150台を超える血圧値を計測したこともあり、そのような高血圧状態にあったときは、めまいやしびれ等を訴えるなど体調も悪かったが、降圧剤の投与により120前後に血圧を下げると、体調も良くなり、脳虚血症状も見られなくなった。そして、■医師は、上記のような控訴人の臨床所見を踏まえた上で、控訴人にとって良好な体調を確保できる血圧状態は「120」であると判断した。また、控訴人は、入院中に脳血流量の増大作用のあるバイアスピリンを服用していたところ、術前の血圧状態をそのまま保った場合、脳出血の危険があった。そのようなことから、■医師は、脳出血及び脳虚血のいずれにも留意して、全身麻酔による一定の脳保護効果も考慮し、術中の血圧状態を収縮期血圧「100」で管理することとしたのであり、そのような血圧管理は何ら不合理ではない。
ウ したがって、被控訴人医師らに血圧管理上の注意義務違反はない。
(2)争点2(相当因果関係)について
【控訴人の主張】
ア 被控訴人医師らは、本件手術中の血圧管理として、術前の血圧状態より低下させないよう血圧状態を維持すべき注意義務を負っていたところ、その理由は、もやもや病患者に対しては、全身麻酔による手術において、術前の血圧状態より低い血圧状態により血圧管理を行った場合、脳虚血が進行し、脳梗塞が発症、拡大するおそれがあることから、それを回避するためである。したがって、被控訴人医師らが、上記注意義務違反を怠る過失があった場合に、恐れていた結果が生じたのであれば、上記過失と上記結果との間には相当因果関係が事実上推認されるべきである。
また、被控訴人病院に入院後の控訴人の血圧状態は、収縮期血圧140台~150台を推移し、最低血圧値は120前後にとどまるものであったが、その際、脳虚血発作の出現はなく、体調の悪化も見られなかったことからすると、同程度の血圧状態であれば、脳血流は維持されたものと考えられる。
したがって、本件手術中の血圧管理において、少なくとも収縮期血圧「120」を下回ることなく維持されたならば、本件手術中ないし術後に脳梗塞が拡大することはなかったというべきである。
イ 被控訴人は、控訴人の上記脳梗塞の拡大について、被控訴人医師らによる血圧管理と関係なく進行したものである旨主張するが、控訴人は、もやもや病により脳虚血の状態にあり、本件手術前の時点において、左後頭葉の一部に脳梗塞が生じていたところ、術後の臨床経過を見ると、本件手術を終えて帰室した7月29日午後8時頃から、呂律困難、手のしびれ、左右の取り違え、意思が伝わらないなどの症状が現れ、翌30日午前0時30分に実施されたMRI検査の結果、脳梗塞の拡大所見が認められたのであって、上記症状の出現時期等を考えれば、上記脳梗塞の拡大は、本件手術中ないし術後間もなく開始したものであり、その原因は、控訴人が、本件手術において、8時間以上にわたって術前の血圧状態よりも過度に低い血圧状態で維持されたことにより、脳虚血が進行したことにあると考えるのが合理的である。
したがって、控訴人の上記脳梗塞の拡大は、被控訴人医師らによる血圧管理上の注意義務違反により生じたものであり、その結果、控訴人は、脳腫脹等を発症するなど脳状態が悪化し、その後の再手術を経ても改善に至らず、右半身麻痺や失語症等の後遺障害を負うことになったのであって、被控訴人医師らの上記注意義務違反と控訴人に生じた後遺障害との間には相当因果関係がある。
【被控訴人の主張】
ア 本件手術の翌日(7月30日)午前0時30分に撮影された①DWI画像では脳梗塞病巣の検出が認められる一方で、②T1強調像及び③FLAIR画像では上記検出が認められないところ、①の画像では脳梗塞発症から0.5~1時間後に上記検出が可能であり、②の画像では3~4時間以降に、③の画像では4.5時間以降に上記検出が可能とされていることからすると(ディフュージョン・フレア・ミスマッチ所見)、上記脳梗塞は、上記①~③の撮影時刻(7月30日午前0時30分)から遡って4~1時間の間、すなわち、同月29日午後8時~午後11時30分の間に発症したことが裏付けられる。本件手術後に認められた脳梗塞は、本件手術中に生じたものではなく、本件手術の終了後に生じたものである。
イ 本件手術中の控訴人の血圧状態は、原判決別紙記載のとおり、血圧値は「90~110/55~45」の範囲で安定的に推移していたところ、これを平均血圧で見た場合、「60~73」の範囲にあった。そして、正常な症例では、平均血圧が「50~150」の範囲で維持管理された場合、脳血流の恒常性は確保されるところ、控訴人の入院中の血圧値の推移を見ると、本件手術の前日までの血圧状態は、降圧剤の投与により140を超える程度に抑えられ、かつ、一過性脳虚血発作等の脳虚血症状も現れなかったことからすると、控訴人の血圧状態は、正常血圧の範囲内でコントロールされていたといえる。したがって、本件手術中、控訴人の脳血流は十分に確保されていたというべきであり、全身麻酔により一定の脳保護効果が得られることを併せ考えると、術中の血圧状態を100前後で維持管理することによって脳血流障害を引き起こしたとは考えられない。仮に、本件手術中の血圧管理が脳梗塞を発症、拡大させる程度に過度の低血圧状態を維持したものであったとするならば、控訴人の左脳(左大脳半球)は右脳(右大脳半球)に比べて60%程度の血流にとどまるものであったことからすると、左後頭葉から側頭葉にかけて脳梗塞が発症、拡大する程度ではなく、他の部分にも脳梗塞が発症、拡大するはずである。
ウ 仮に本件手術中に脳梗塞が発症したのであれば、全身麻酔からの覚醒が良好であることはあり得ないところ、本件手術終了後の控訴人の全身麻酔からの覚醒は良好で、意思疎通もできていた。控訴人は、本件手術が終了し、麻酔状態から覚醒することにより、全身麻酔による脳血流増加作用が失われ、さらに体温の上昇、脳酸素需給バランスの悪化、脱水等の要因が重なった結果、術前より存在した脳梗塞が術後に進行した可能性があり、本件手術中の血圧管理とは関係がない。
エ もやもや病は症例の少ない指定難病であり、血圧管理上の目標値に関して具体的な基準を定めたガイドライン等はなく、また、控訴人の病態についても、控訴人が被控訴人病院を受診した時点において、左後頭葉の一部に脳梗塞が見られ、左側の脳血流が右側脳血流に比べて約60%にまで大きく減少した状態にあり、もはや経過観察を続けるのは適切ではなく、でぎる限り早期に血行再建術を実施すべき程度にまで進行していたことからすると、本件手術の実施に当たり、具体的にどのような血圧目標値を設定して血圧管理を行えば脳梗塞の拡大を防ぐことができたのかを確定することはできず、仮に、控訴人の主張する「120」を血圧目標値として血圧管理を行ったとしても、脳梗塞の拡大を防止することができたとはいえず、被控訴人医師らの血圧管理と控訴人に生じた後遺障害との間に相当因果関係は認められない。
(3)争点3(控訴人の損害額)について
【控訴人の主張】
控訴人は、本件手術当時、I1労働組合に勤務する団体職員であったところ、被控訴人医師らの注意義務違反により右半身麻痺や失語症等の後遺症が残り、通常の就労が不可能となった。控訴人は、利き手である右手を使うことができず、左手のみでできることは限られることから、会議資料の印刷、会報や組合関係冊子の発送補助(袋詰め)、事務室内の整頓等の軽作業しか従事することができず、しかもその軽作業も同僚の助けがなければできない。また、日常生活においても、着替えや食事などの不可欠な基本的動作が制限されており、身体の危険が生じる程度である。
したがって、控訴人の後遺症は、自動車損害賠償保障法施行令別表第二の後遺障害等級(後遺障害等級)5級の「神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し、特に軽易な労務以外の労務に服することができないもの」に該当するところ、控訴人に生じた損害額の合計は、以下のとおり9814万7751円となる。
ア 休業損害 407万6685円
(平成21年分)平成20年の収入615万0696円と平成21年の収入514万8565円の差額である100万2131円(甲◆、2)
(平成22年分)平成20年の収入615万0696円と平成22年の収入392万1268円の差額である222万9428円(甲◆、3)
(平成23年分)平成20年の収入615万0696円と平成23年の収入290万3632円の差額は324万7064円であり、同年4月5日に症状固定しているから、84万5126円(324万7064円×95日/365日=84万5126円。甲◆、4)
イ 後遺障害逸失利益 7115万1066円
基礎収入:615万0696円(甲◆)
労働能力喪失率:79%(後遺障害等級5級を基準)
労働能力喪失期間:27年(症状固定時の年齢40歳から就労可能年齢67歳まで)
27年のライプニッツ係数:14.6430
(615万0696円×0.79×14.6430≒7115万1066円)(1円未満は切り捨て)
ウ 後遺障害慰謝料 1400万円
エ 弁護士費用 892万円
【被控訴人の主張】
ア 控訴人に後遺症が残存したことは争わない。
イ 控訴人の後遺障害等級が5級であることは争わない。
ウ 控訴人主張の具体的な損害額についてはいずれも争う。
第3 当裁判所の判断
1 認定事実等
前記前提事実に加え、後掲各証拠(ただし、後記認定事実に反する部分を除く。)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実関係及び医学的知見等を認めることができる。
(1)認定事実
ア 控訴人は、平成18年頃から、時々、右視野の欠損症状を自覚するようになり、平成21年7月15日、上記症状を訴えて□病院を受診し、検査及び診察を受けたところ、視野障害が認められ、その原因として脳機能に異常が生じている疑いがあるので、脳神経外科の専門医による検査及び診察を受けるよう勧められ、被控訴人病院の紹介を受けた(乙▲)。
イ 控訴人は、7月16日、被控訴人病院の脳神経外科を受診し、MRI検査及びMRA検査を受けた。控訴人の診察を担当した■医師は、上記各検査の画像上、控訴人の頭部左側において中大脳動脈の閉塞、前大脳動脈及び後大脳動脈の狭窄、頭部右側において前大脳動脈及び中大脳動脈の狭窄の各所見を認めるとともに、左後頭葉の一部に脳梗塞の発症がうかがわれたことから、控訴人がもやもや病を発症し、脳梗塞も併発している疑いがあり、更に検査を行う必要があると考え、その旨伝え、控訴人は、同日、被控訴人病院に入院した。(以上につき、乙▲、9、原審証人■医師)
ウ ■医師は、7月22日、控訴人及びその家族(妻、父母)に対し、入院以降に実施した各種検査の結果(MRI画像、脳灌流CT画像等)を示しながら、控訴人の頭部左側において主要な血管が閉塞ないし狭窄し、それによって脳内の血流が不足した状態にあり、それを補うべく「もやもやとした」微細な毛細血管群(異常血管網)が出現するという、もやもや病を発症している可能性が高く、左側後頭部には既に脳梗塞の併発が認められるところ、これを放置した場合、脳梗塞が悪化したり、上記毛細血管が破裂等して脳出血を起こしたりする可能性があることから、これらを防止するには血行再建術により虚血状態を改善する必要があるとして、以後の予定については、脳血管造影検査により確定診断を経た上、できる限り早期に手術を実施することが望ましく、可能であれば、同月29日に手術を行うことを提案した。なお、頭部CT検査及び灌流CT検査の各画像によれば、病態の進行程度としては、脳出血の発症はないものの、左大脳半球の血流が右大脳半球の血流と比べて60%程度に低下した状態にあった。(以上につき、乙▲、4、8、9、原審証人■医師)。
エ ■医師は、7月24日、控訴人に対し、脳血管造影検査を実施し、控訴人の病態はもやもや病であると確定診断した上、控訴人及びその家族に対し、その旨告知するとともに、もやもや病に対する手術方法としては、直接吻合法と間接吻合法があるところ、上記検査の画像上、閉塞した内頸動脈の周辺に直接吻合可能な血管が見当たらないことから、間接吻合術を選択するのが相当と考えられることなどを説明し、「手術に関する説明と同意書」(乙▲[80頁]。以下「本件同意書」という。)を交付し、手術に同意する場合は、これに署名して提出するよう求めた。本件同意書には、「麻酔について」として「全身麻酔は麻酔専門医が行う。もやもや病は脳梗塞等の麻酔リスクが若干高い。」、「術後起こり得る合併症について」として「脳血流がぎりぎりまで低下しており麻酔等においても虚血を起こしやすい。」との記載があるところ、術中の脳出血に関する記載はない。(以上につき、乙▲、9、原審証人■医師)
オ 控訴人は、遅くとも右視野の欠損症状を自覚するようになった平成18年頃以前から、日常的に高血圧の状態にあったところ、被控訴人病院の入院当日(7月16日)に計測した収縮期血圧は180であった(以下、特に断りのない限り、「血圧」とは「収縮期血圧」をいう。)。■医師は、上記のような控訴人の血圧状態及び控訴人が既に脳梗塞を発症していることなどを考慮し、同日以降、オザペンバッグ、ラジカットのほか、入院翌日(7月17日)以降、バイアスピリン(抗血小板剤)、オルメテック(降圧剤)を処方することとした。控訴人は、上記降圧剤等の効果により、7月17日の午前から午後にかけて、血圧が120前後に下がったことはあったものの、同日夜から翌18日にかけて150を超える状態が続き、同日午後には170に達し、ニフェラート(カルシウム拮抗薬、降圧剤)の投与を受けた。これにより、控訴人の血圧状態は、7月19日の午前中に120を下回ったことがあったものの、同月20日には180を超えたことから、ニフェラートの追加投与を受け、その後も140台~150台を推移した。そして、控訴人は、入院当日から本件手術前日までに1日を通して血圧が150を下回った日はほとんどなく、入院当日から本件手術前日までの平均血圧値は140を超える状況にあった。(以上につき、乙▲)
カ 平成21年7月当時、被控訴人病院には、常勤の麻酔医がいなかったことから、■医師は、本件手術の数日前頃、J1病院に対し、控訴人の病名、性別、年齢等を記載した書面をファクシミリにより送信し、麻酔医の派遣を要請したところ、同病院所属の◇医師が本件手術の担当麻酔医として派遣されることとなった。◇医師は、脳神経外科手術の実施に伴う全身麻酔による麻酔管理については約300件の担当経験を有していたが、もやもや病の血行再建術の実施に伴う麻酔管理については担当した経験がなく、本件手術が初めてであった。なお、■医師は、本件手術より前に、もやもや病の血行再建術の執刀医として約10件の担当経験を有していた。(以上につき、乙A9、10、原審証人■医師、原審証人◇医師)
キ ■医師は、本件手術の当日である7月29日の午前、被控訴人病院の脳神経外科の非常勤医師として週1回勤務していた◆医師に声を掛け、本件手術の第1助手を務めてほしい旨依頼し、その承諾を受けた上、本件手術開始の約1時間前頃、◆医師及び◇医師との間で、本件手術の手順等について、口頭で打合せを行った。その際、■医師は、◇医師に対し、血圧管理上の目標値(血圧目標値)を「100」とするよう指示したが、控訴人の入院中の血圧値の推移、控訴人の病態、脳血流障害の程度、もやもや病の性質等から特に留意すべき事項についての説明はなく、◇医師も、上記血圧目標値の設定その他血圧管理上の方針について特に異議を述べることはなかった。また、◇医師は、上記指示等について、これまで脳外科手術の麻酔管理を担当してきた経験上、収縮期血圧を100前後の状態を維持することにより、全身麻酔下における患者の呼吸及び循環状態を安定させつつ、術中における出血抑制や早期の止血効果及びそれによる術野の確保等を図ることができ、手術を円滑に進められてきたことから、本件手術においても収縮期血圧を100前後に維持するのが相当であり、かつ、それで差し支えないものと考えた。(以上につき、乙▲、9~11、原審証人■医師、原審証人◇医師)
ク 本件手術は、午後0時29分から午後7時5分まで(合計6時間36分)、麻酔時間は、午前11時2分から午後7時25分まで(合計8時間23分)であったところ、上記時間における控訴人の血圧状況は、原判決別紙記載のとおりであり、その間、収縮期血圧は100前後(拡張期血圧は50前後)で維持されたところ、午後1時25分頃からの約45分間、午後2時25分頃からの約1時間、午後5時15分頃からの約1時間、いずれも連続して100を下回り、また、午後3時35分から午後3時40分までの間は81~83、午後5時15分には88、午後5時50分から午後5時55分までの間は87になっていた(乙▲)。
ケ 控訴人は、午後7時30分過ぎ頃、麻酔から覚醒し、午後8時頃、病室に戻ったが、その頃、やや呂律が困難な様子が見られ、意思が伝わりにくい状態にあった。また、控訴人は、病室において、手のしびれを訴え、家族に対し、「右手」と言いながら「左手」を示す動作が見られたほか、呂律も不自由な状態が続いた。(以上につき、甲C7、乙▲、2、原審証人S1、原審証人T1)
コ 控訴人は、午後11時30分頃、病室を訪れた看護師に対し、言葉を発しようとしても出にくい状態であり、左手のしびれも強く訴える動作を示したことから、看護師は、■医師にその旨報告をした(乙▲)。
サ ■医師は、7月30日午前0時30分頃、控訴人に対し、頭部MRI検査を実施したところ、左後頭葉から側頭葉の部分に超急性期梗塞の所見を認めたことから、脳虚血の進行抑制、脳保護等を図るため、オザベンバッグ、バイアスピリン、ラジカットの投与を行ったものの、脳浮腫(脳腫脹)の拡大が進行し、脳室変形、さらに硬膜下血腫が見られるようになった。また、控訴人の呂律異常、発語困難はさらに悪化し、同日午後から翌31日には、発語自体が見られない状態になった。(以上につき、乙▲)
シ ■医師は、7月31日、控訴人の家族(妻、父母)に対し、外減圧手術が必要であるとの説明を行い、同意を受けた上、控訴人に対し、外減圧手術を実施した(甲C7、乙▲)。
ス 控訴人は、8月3日、脳保護を目的とする低体温治療法を受けるため、△病院救命センターに搬送され、その後、H1病院に転院し、リハビリ治療等を受けたが、上記症状は改善されず、平成23年4月5日、後遺障害等級5級相当の後遺障害(右半身麻痺、失語症等)を有する状態で症状が固定した(甲▲、乙▲)。
(2)もやもや病に関する平成21年当時の医学的知見、診療に関する臨床上の実践状況等
ア 原審では、脳神経外科のL1医師(L1医師。控訴人申出)、Q1医師(Q1医師。被控訴人申出)、麻酔科のN1医師(N1医師。控訴人申出)、P1医師(P1医師。被控訴人申出)の各証人尋問が実施され、L1医師(甲B7、15)、N1医師(甲■1)、P1医師(乙■8)、Q1医師(乙B20)及びU1 V1大学麻酔科教授(乙■9)の各意見書並びに関連する医学文献(甲■~4、13、乙■、2、9、23)が提出され、当審において、追加の医学文献(甲■9)、W1 Z1大学医学部脳神経外科主任教授(以下「W1教授」という。)の意見書(乙B38、39)が提出されているところ、これらの証拠及び弁論の全趣旨によれば、もやもや病の病態及び性質、もやもや病患者に対する外科的手術及び一般的な外科的手術における麻酔管理に関して、以下の医学的知見及び臨床上の実践状況等を認めることができる。
(ア)もやもや病は、脳の内頸動脈の終末部や前・中脳動脈付近部が狭窄ないし閉塞することにより、脳の一部の血流が阻害され、虚血状態が生じる疾患であり、このような状態を改善しようと血流の不足部分に血液を送り込もうとする作用が働くことから、当該部位及びその周辺に「もやもやとした」微細な毛細血管群(異常血管網)の出現が見られるという特徴がある。そして、もやもや病の脳は、本来備わっているはずの自動調節能が障害されている(正常な脳灌流圧を保持するための自動調節能が働かない)ことから、日常の血圧状態から血圧が過度に低下した状態が続いた場合、虚血状態が進行し、脳梗塞を発症する危険性がある。
(イ)もやもや病は、厚生労働省の特定疾患(難病)として指定されている原因不明の進行性の脳血管閉塞症であり、これを根治させる治療方法は存在しない一方で、これを特段の処置なく放置した場合、血流阻害部分が拡大して脳梗塞となる可能性があり、上記血管網の一部が破れて致命的な脳出血が生じる可能性もあることから、これらを回避するべく血流阻害状態を改善するには外科的手術(血行再建術)が必要になるところ、その方式としては、頭蓋骨の一部に穴を空けて血流の不足する頭蓋内血管と血流の足りる頭蓋外血管を直接縫合するという直接吻合法と、血流の足りている頭蓋外組織を血流の不足した脳表面に接触させることにより新たな血管を派生させる間接吻合法がある。
(ウ)もやもや病を発症した脳は、上記のとおり、血流の一部が阻害されていることから、血圧の上昇は脳出血のおそれがある一方で、血圧の低下は脳虚血を悪化させる危険がある。したがって、もやもや病患者に対する血行再建術において、術前の血圧状態より過度に低下した血圧管理を行った場合、脳梗塞を発症、拡大させる危険が高くなることから、術中は、術前の血圧状態を維持する(下回らない)のが望ましいとされているが、全身麻酔による一定の脳保護効果(脳代謝率の低下による酸素消費量の減少や脳血管拡張作用等)を考慮すれば、術前の血圧状態よりも2割を超えて下回らない程度、あるいは、正常血圧の範囲内でコントロールされている場合には100を下回らない程度の状態で維持しても差し支えないとする見解もあり、統一的、画一的に定められた基準や指針等はなく、当該患者の病態、体質、血圧状況その他術前の臨床所見等の個別事情を踏まえ、個々の手術ごとに設定すべきものとされている。
そして、術中の血圧管理において指標となる血圧目標値については、主治医(執刀医)と麻酔担当医が協議して設定することもあれば、主治医が予め設定し、それを麻酔担当医に指示する場合もあるところ、いずれであっても、麻酔担当医は、上記目標値に向けた薬剤の選択及び組み合わせ、投与量及び投与速度等を決定し、術中の状況に応じて調節しながら、上記目標値に沿った血圧管理を行う。
(エ)もやもや病患者に対する脳外科手術に限らず、外科手術を実施するに当たっては、術中の安定的な循環管理の観点から、血圧状態(術前の血圧状態)については、いわゆる正常血圧(収縮期血圧が140以下)の範囲内にコントロールされているのが望ましいとされているところ、高血圧状態にある患者については、降圧剤等の投与により、術前に血圧コントロールがなされることがある。もっとも、必ずしも全ての患者が正常血圧の範囲内の血圧状態にコントロールされるものではなく、また、もやもや病の場合、脳血流の一部が阻害され、これを改善しようと血流の不足部分(虚血部分)に血液を送り込もうとする作用が働いているところ、上記作用によって虚血部分に対する血流がかろうじて確保されていることもあり、高血圧症を併発することも少なくない。そのようなことから、もやもや病患者について、薬剤等により上記作用を過剰に抑制することによって血圧を過度に低下させた場合、虚血部分に対する血流が更に阻害され、脳梗塞を発症、拡大させる危険がある。
(オ)上記のとおり、もやもや病患者に対する全身麻酔を伴う外科手術中の血圧管理において、術前の血圧状態から過度に低下した血圧状態が続いた場合、虚血状態が悪化し、脳梗塞を発症、拡大させる危険があるところ、一般的な急性脳梗塞では、脳血管の閉塞により虚血状態に陥った場合、閉塞部分が早期に回復しなければ急速に梗塞化が広がっていく(閉塞部分が早期に回復した場合は一過性脳虚血発作にとどまる。)という経過をたどるのに対し、もやもや病患者の場合、虚血状態の悪化により直ちに脳梗塞が発症するのではなく、虚血状態の悪化が長時間続くことにより梗塞化が開始され、梗塞部分が拡大していくという経過をたどるとされている。なお、もやもや病患者の場合、血流の低下していた脳部分の血流が更に悪化した場合であっても、当該脳部分が全て梗塞化するものではなく、部位によって血流の自動調節能の障害の程度に差があり得ることから、上記脳部分の一部が梗塞化するにとどまることもある。
(カ)全身麻酔とは、薬剤(全身麻酔薬、鎮痛薬及び筋弛緩薬)により疼痛その他の刺激に対して覚醒しない意識消失の状態を作出することをいい、実施される手術の術式、手術部位、所要時間、当該患者の年齢、性別、身体所見、体質、病態、術前の投薬状況等の個別事情を踏まえ、安定した呼吸及び循環状態と適切な麻酔深度が得られるよう、上記各薬剤を組み合わせることによって行われる。また、全身麻酔を導入すると、その鎮静効果により血圧は下がる(導入時点の血圧が当該患者の日常的な血圧であったとしても、全身麻酔の導入により血圧は自然的に低下する。もっとも、無意識状態にあるとはいえ、術中に切開等による痛みや様々なストレスが加わることにより、血圧は上昇することがある。)ことから、麻酔担当医は、そのような性質及び上記個別事情を踏まえた上で、主治医(執刀医)との間で術前に設定した、あるいは、主治医から指示された血圧目標値に沿った血圧管理を行う。なお、手術中の血圧管理において、安定した呼吸、循環状態を維持、確保し得る範囲内であれば、血圧を低めに維持することによって出血リスクは低くなり、術野も確保しやすいなどのメリットがある一方で、高血圧患者の場合、血流が不足し、臓器が虚血状態になるリスクがある。
(キ)血行再建術が成功した場合、直接吻合法の場合には手術の直後から、間接吻合法の場合には新生血管の派生により約2~3か月後から、いずれも血流の改善が得られ、脳虚血の進行を抑えることができるようになる。もっとも、上記各手術はいずれも対症的な処置であり、狭窄ないし閉塞した脳動脈部分を治癒させるものではなく、既に梗塞化した部分を改善、消失させることはできないところ、再度、脳動脈の狭窄ないし閉塞が進行、悪化した場合には、その程度に応じて再手術が必要になる。
イ もやもや病に対する外科手術中の血圧管理について、医学文献上、以下のとおりの記載が存在する。
(ア)麻酔科入門・改訂第7版(昭和46年7月1日第1版発行、甲B5)
「麻酔管理としては、安静時の血圧を保ち、…麻酔の目標として脳血流量に余力がないため、脳血流量を減少させないようにする。」
(イ)麻酔の研修ハンドブック(平成元年4月10日第1版発行、甲B6)
「脳虚血及び脳血流遮断術による血流低下を最小限にする麻酔方法が必要となる。」「血圧は日常の血圧の範囲内で保つ。」「血圧低下に注意する。」
(ウ)論文「もやもや病における術後早期合併症-吸入麻酔と静脈麻酔による比較-」(麻酔第54巻6号[平成17年6月10日発行]、乙B9)
「もやもや病での血行再建術の周術期管理上、留意点は患側部位への血流低下をできるだけ防止することである。」「術中は、脳虚血を防止するための安全域が狭いため、特に以下の点に注意が必要である。…循環管理としては、虚血脳は自動調節能が障害されており脳灌流圧を保つことが重要であるため、血圧は術前値を参考に維持し、循環血液量を保つため脱水を避け、適切な輸液を行う。」
(エ)論文「もやもや病成人の外科的血行再建術後の新たに発症した脳梗塞の危険因子(2016年3月作成、甲■6の2、乙B26の1)
「もやもや病患者では血行動態が不安定なため、全身麻酔をかけることによる虚血性合併症のリスクが高い。もやもや病患者の大脳皮質では、低下した局所脳血流量、灌流圧を代償すべく、局所脳血流量、局所酸素摂取率が増加する。つまり脳循環予備能が減少しているので、全身麻酔や血行再建術を行うことで血行動態的にストレスがかかり、患者の状態が悪化しやすくなる。従って、こうした患者は細心の注意を払って治療し、低血圧、循環血圧量減少、高体温、低炭酸ガス血症、貧血を避けることが不可欠である。」「通常は、循環血液量を適正にし、収縮期血圧を110から130mmHgの間に保ち、ヘマトクリットも厳重に30%<にコントロールする。」
(オ)もやもや病(ウイリス動脈輪閉塞症)診断・治療ガイドライン(20009年。甲B2)
「周術期は非手術側も含めた虚血性合併症に留意し、血圧維持、炭酸正常状態に保ち、十分な水分補給を行う。」「もやもや病の病態は、症例ごとのバリエーションがあり、本ガイドラインが個々の症例のすべてに適応するものではない。したがって、実際の診療に関しては、個々の患者の病態を正確に把握した担当医の判断が重視されるべきである。」
(カ)脳卒中治療ガイドライン(2009年、甲■8)
「(もやもや病の外科治療の周術期管理として)周術期は非手術側も含めた虚血性合併症に留意し、血圧維持、炭酸正常状態を保ち十分な水分補給を行う。」
(キ)脳神経外科臨床マニュアル・改訂3版(2002年、甲■9)
「(もやもや病の血行再建術周術期の注意として)血圧を120-150に保つ。必要ならCa拮抗剤にて高血圧をコントロールする。また低血圧例には、ドーパミン、ドブタミンにて血圧をコントロールする。」
2 争点1(血圧管理上の注意義務違反)について
(1)前記1(2)のもやもや病に関する平成21年当時の医学的知見及び診療に関する臨床上の実践状況等によれば、もやもや病患者の脳は、その一部の血流が阻害され、虚血状態が生じている上、本来備わっている自動調節能が障害されているところ、術前の血圧状態から血圧が過度に低下した状態が続いた場合、虚血状態が進行し、脳梗塞を発症、拡大させる危険があるというのであるから、もやもや病患者に対する外科手術を担当する医師(脳神経外科医師、麻酔科医師)は、血圧の低下が生じやすい全身麻酔を伴う外科手術を実施するに当たっては、上記危険を回避すべく、術前の血圧状態を適切に評価した上、術中にどのような血圧状態を維持すれば脳虚血の進行を防止しながら手術を遂行することができるかを検討し、術中、患者にとって過度に低い血圧状態にならないよう配慮した血圧目標値の設定を含む血圧管理上の方針を決定すべき注意義務を負っていたというべきである。そして、術前の血圧状態については、いわゆる正常血圧(収縮期血圧が140以下)の範囲内にコントロールされているのが望ましく、また、複数の医学文献において、術中の血圧管理については、当該患者の術前の血圧状態を維持する(下回らない)よう努めるべきとされている一方で、全身麻酔による一定の脳保護作用を考慮することにより、術前の血圧状態よりも2割を超えて下回らない程度、あるいは、正常血圧の範囲内でコントロールされている場合には100を下回らない程度の状態で維持しても差し支えないとの見解もあり、統一的、画一的に定められた基準や指針等はなく、臨床医学上の実践としては、手術の術式、手術部位、予想される手術時間、当該患者の病態、体質、血圧状況その他術前の臨床所見等の個別事情を踏まえ、個々の手術ごとに当該患者にとって血圧目標値を設定すべきものとされていたことが認められる。
(2)これを本件手術についてみると、前記認定事実によれば、控訴人は、平成21年7月頃、平成18年頃から自覚症状のあった右視野の一部の欠損について、MRI等の検査を受けた結果、もやもや病を発症していることが明らかになり、左後頭葉の一部に脳梗塞が見られ、左大脳半球が右大脳半球の約60%に脳血流が低下した状態(本件同意書上の記載によれば、「ぎりぎりに低下」した状態)にあったことから、早期に手術(血行再建術)を受ける必要があるとして、本件手術を受けることになったところ、被控訴人病院に入院した当日の血圧は180に達し、その後の入院中も日常的に降圧剤の投与を受けていたにもかかわらず、連日、140台から150台を推移し、1日を通して150を下回った日はほとんどなく、本件手術前日までの平均血圧は140を超えていたことが認められる。
そして、本件手術の実施時間は5時間が予定されていたところ、術中の状況如何によっては予定時間を上回る可能性があり、本件手術前後の麻酔時間を合わせれば、控訴人が全身麻酔下に置かれる時間は相当長時間に及ぶことになるのであって、その間、控訴人の血圧状態が術前より過度に低下した状態が続いた場合には、既に発症していた脳梗塞をさらに拡大させる危険があったというべきである。そうすると、被控訴人医師らは、本件手術を実施するに当たり、上記危険が現実化することを避けるべく、特に主治医である■医師は、もやもや病の性質、控訴人の病態、脳血流障害の程度、入院中の血圧値の推移等を踏まえ、術前の血圧状態を適切に評価した上、本件手術中は、術前の血圧状態を維持するか、あるいは、全身麻酔下における一定の脳保護効果を考慮することにより術前の血圧状態より低下した血圧管理を行うとしても、控訴人にとって過度に低い血圧状態とならないよう配慮した血圧管理を行う注意義務があったというべきである。
しかしながら、■医師は、本件手術の実施が決定された7月24日以降、本件手術の麻酔管理を担当する麻酔科医師の派遣をJ1病院に依頼したものの、その後、◇医師が本件手術の麻酔管理を担当することが決定されてからも、本件手術の当日まで◇医師と打合せを行うことはなく、また、本件手術の第1助手を務めた◆医師についても、■医師が本件手術の当日である7月29日の午前に声を掛けて依頼したというのであって、被控訴人医師らが本件手術について直接打合せを行ったのは、本件手術開始の約1時間前頃に30分程度であり、その際、本件手術における血圧管理上の方針を決定するに当たっても、被控訴人医師らは、もやもや病の性質、控訴人の病態、脳血流障害の程度、入院中の血圧値の推移等の個別事情を踏まえた協議は行わず、■医師が、◇医師に血圧目標値として収縮期血圧の数値を100程度で維持するよう伝えたにとどまり、◇医師も、過去に担当した麻酔管理(ただし、同医師は、本件手術以前にもやもや病患者に対する血行再建術の麻酔管理を担当したことはなかった。)において同程度の状態を維持することにより特段の問題が生じた経験はなかったことから、特に異議等を述べることもなかったというのである。この点に関し、■医師は、術中の血圧目標値を「100」と設定、指示した理由として、控訴人の術前の血圧状態を「120」と評価した上で全身麻酔下における一定の脳保護効果を考慮した旨述べる。しかしながら、前記認定事実によれば、控訴人は、入院中、降圧剤の投与により120前後に低下したことが三、四回ほどあったとはいえ、いずれも一時的、単発的であり、その日のうちに血圧は150を超え、ほぼ連日、140台~150台を推移する血圧状態が続き、本件手術の前日まで1日を通して150を下回る日はほとんどなく、平均血圧値は140を超えていたのであって、このような血圧値の推移からは、120前後の血圧状態では控訴人にとって必ずしも十分な脳血流を維持することができず、それを上回る血圧により脳血流を確保しようとする作用が働いていたことがうかがわれるところであって、上記のような血圧値の推移等を客観的に観察すれば、控訴人の術前の血圧状態は「140~150」と評価するのが自然であり、一時的、単発的に計測されたにすぎない「120」をもって術前の血圧状態と評価したことには疑問を抱かざるを得ない。しかも、■医師は、前記のとおり、全身麻酔下における一定の脳保護効果を考慮したという理由から、上記「120」よりもさらに2割程度低下させた「100」を血圧目標値としたというのであるが、そのような血圧目標値の下で血圧管理を行った場合、控訴人は、本件手術中、術前の血圧状態(140~150)より3割低い血圧状態で維持されることになる上、当時、控訴人の脳(左後頭葉)の一部は既に梗塞化し、左右の血流差が約4割に達していたところ、本件手術の予定時間が5時間を予定していた(実際の手術時間は6時間を超え、麻酔時間は8時間を超えた。)ことを考えれば、その間に脳梗塞の拡大、悪化を引き起こす危険が高くなることが当然に懸念されるのであり、全身麻酔下において一定の脳保護効果が得られるからといって、上記危険があることを踏まえてもなお、血圧目標値をあえて「100」に設定する必要性、合理性があったとは認められない。そして、このような事情に加え、カルテ(乙▲)には、事前カンファレンスについての記載が全くなく、上記血圧目標値の設定、指示に係る経緯についても、■医師及び◇医師との間で整合性及び一貫性が見られない(原審証人■医師、原審証人◇医師)ことを併せ考えれば、被控訴人医師らが本件手術における血圧目標値を「100」としたのは、一般的な脳外科手術では「100」を血圧目標値として血圧管理を行うことが多く、それにより過去に特段の問題は生じなかったという経験に従ったというにすぎず、本件手術の実施に当たり、血圧目標値の設定を含む血圧管理上の方針決定において、上記のような控訴人の個別事情を検討することにより控訴人にとって過度に低下した血圧状態にならないよう配慮したとは認められない。
なお、控訴人は、本件手術中の血圧管理について、もやもや病患者に対する手術では術前の血圧状態を維持すべきものとされているとして、控訴人は、既に脳梗塞を発症し、特に左側の脳血流が大きく不足した状態にあり、入院後の血圧状況を見れば、連日、140台~150台を推移し、最低血圧値も120前後にとどまったことからすると、被控訴人医師らは、上記のような事情を踏まえ、本件手術の実施に当たっては、血圧目標値を少なくとも「120」と設定した上で、術中には同程度の血圧状態を維持すべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠った過失がある旨主張するところ、これは上記認定判断と同旨をいうものとして採用することができる。
(3)これに対し、被控訴人は、もやもや病患者に対する外科手術には脳虚血と脳出血のリスクがあり、血圧状態を低く管理すれば脳虚血のリスクが高くなる一方で、血圧状態を高く管理すれば脳出血のリスクが高くなるところ、もやもや病患者に対する血行再建術に関し、血圧目標値に係る具体的な基準を定めたガイドライン等は存在せず、どのような血圧状態をもって管理するかについて、確立した医療水準はなく、被控訴人医師らが本件手術における血圧目標値を「100」と設定したのは、脳出血のリスクを回避しながら、全身麻酔により一定の脳保護効果が得られることを考慮したものであり、脳外科医師及び麻酔科医師の臨床上の判断として不合理とはいえない旨主張する。
しかしながら、もやもや病患者に対する血行再建術に関し、血圧目標値に係る具体的な基準を定めたガイドライン等が存在せず、どのような血圧目標値を設定した上で血圧管理を行うかについては担当医師の合理的な裁量に委ねられる部分があるとしても、術前の血圧状態は個々の患者によって異なり得るものであり、当該患者の術前の血圧状態を適切に評価することは当然の前提であって、術前の血圧状態に係る評価が当該患者の個別事情を踏まえたものでなければ、そのような術前の血圧状態に基づいた血圧目標値の設定及びその後の血圧管理は、もはや合理的裁量の前提を欠くものといわざるを得ない。もやもや病の患者は、脳動脈の狭窄又は閉塞により不足した脳血流を維持しようとする作用が働いているのであるから、上記作用を過度に抑制した場合には脳虚血状態が悪化する危険が高くなるものと考えられるところ、もやもや病に関する医学文献において、上記のようなもやもや病患者に対する血圧管理について、術前の血圧状態と同程度の血圧状態を維持すべきものとされているのは、そのような趣旨によるものと解され、一律的、分類的に具体的な基準が記載されていないのは、個々の患者の病態、臨床所見上の個別事情が異なり、上記のような基準を定めることは現実的に困難であるとともに、どのような血圧目標値が適切であるかについては、担当医師が個々の患者の病態を把握、検討することにより、個別具体的に設定すべきものと理解するのが相当である。そうすると、もやもや病患者に対する術中の血圧管理において、全身麻酔による一定の脳保護効果を考慮するとしても、当該患者の個別事情を検討することなく、当該患者にとって術前の血圧状態より過度に低い血圧状態で維持した場合には、脳虚血が進行し、脳梗塞を発症、拡大させる危険が高くなるのであるから、被控訴人医師らは、上記のようなもやもや病の性質や控訴人の個別事情等を踏まえた血圧目標値を設定し、それに沿った血圧管理を行う注意義務があったと解されるのであって、そのような事情等を考慮しない裁量的判断が合理的であるとはいえない。■医師によれば、本件手術を実施するに当たり、術前の血圧状態を「120」と評価した上で、全身麻酔による一定の脳保護効果を考慮して「100」を血圧管理上の血圧目標値として設定したというが、前記(2)において摘示したとおり、上記術前の血圧状態の評価及び上記血圧目標値の設定は、控訴人の病態、脳血流障害の程度、血圧値の推移等の個別事情を検討したものではなく、また、本件手術の麻酔管理を担当する◇医師も、これまで脳外科手術の麻酔管理では100前後の血圧状態をもって血圧管理をすることが多く、そのような血圧管理によって特段の問題が生じたことがなかったという経験的な理由から、上記血圧目標値の設定に異議を述べることもなかったというのである。そうすると、被控訴人医師らが、本件手術中の血圧管理を行うに当たり、もやもや病の性質や控訴人の個別事情等を踏まえた上で控訴人にとって過度に低下した血圧状態にならないように配慮したとは認められないのであって、このような血圧管理の在り方は、もやもや病患者に対する血行再建術を担当する医師に委ねられた裁量の範囲を逸脱したものといわざるを得ず、被控訴人の上記主張は採用することができない。
(4)また、被控訴人は、被控訴人医師らが本件手術中の血圧目標値を「100」としたことが誤りではないことを裏付ける証拠として、W1教授の意見書(乙B38、39)を引用するところ、同意見書によれば、被控訴人病院に入院した翌日には170を超える血圧値が計測されたものの、降圧剤の投与により、120前後の血圧値が計測されるようになり、その際、特に神経症状は見られず、本件手術の二、三日前の血圧値は140を上回ったが、ほぼ正常血圧基準の上限レベルであり、日常血圧は正常域にあったとして、このような場合、「3ケタを切らない程度」を目標値として血圧管理を行うことに問題はない旨の見解が述べられている。
しかしながら、前記認定事実のとおり、控訴人の入院中の血圧値の推移を見ると、本件手術の前日まで連日150を上回る血圧値が計測されているところ、120前後の血圧値が計測されたとしても、同日のうちに140を超える血圧値を計測していたのであって、上記意見書には、このような血圧値の推移を踏まえた上で、それでもなお正常血圧の範囲内にコントロールされていると評価する理由は何ら示されていない。さらに、術前、控訴人は左大脳半球の血流が右大脳半球の血流と比較して60%程度に減少している状態にあったところ、上記意見書には、控訴人の術前における連日的な血圧値の推移に加えて、控訴人の脳血流障害が上記のような程度にあったことを考慮した上でなお、本件手術中の血圧を「100」前後で維持管理することに問題はないものと判断する理由が何ら示されておらず、上記判断には疑問を抱かざるを得ない。上記意見書に記述された見解は、重要な前提事実に係る評価、考慮が十分とはいえず、前記認定判断を左右するには至らない。
(5)さらに、被控訴人は、もやもや病患者に対する外科的手術においては、脳出血のリスクを回避するよう努めることも重要である旨主張する。それ自体は直ちに否定されるものではないが、前記説示のとおり、術前の血圧状態より過度に低下させた場合には脳梗塞の危険が高くなるのであって、そのような危険が現実化することのないよう配慮すべき注意義務は、脳出血のリスクがあるからと言って否定されるものではなく、被控訴人医師らが、術前の血圧状態の評価及び血圧目標値の設定に当たって控訴人の個別事情等を検討していない以上、上記注意義務を果たしたとは認められないのであり、被控訴人の上記主張は採用することができない。
(6)その他、被控訴人は、もやもや病患者に対する術中の血圧管理としては、平均血圧が重要であり、一定の範囲内において管理されていたならば、十分な脳血流が確保されている旨主張するが、仮に平均血圧([収縮期血圧-拡張期血圧]×1/3+拡張期血圧)を基準にするとしても、術前の血圧状態を適切に評価した上で、あるべき平均血圧を基準にするならばともかく、術前の血圧状態の評価に当たり、当時の控訴人の臨床所見上の個別事情を検討していないのであれば、一般的に標準とされる平均血圧の数値が必ずしも控訴人にとっての適切な平均血圧であるとは限らない。加えて、被控訴人医師らは、本件手術中の血圧管理に当たり、平均血圧を指標としていたものではなかった(原審証人■医師、原審証人◇医師)というのであるから、被控訴人の上記主張は前提を欠くものとして、採用することができない。
(7)以上によれば、被控訴人医師らは、本件手術を実施するに当たり、もやもや病の性質、控訴人の病態、脳血流障害の程度、血圧値の推移等の個別事情を踏まえ、術前の血圧状態を適切に評価し、控訴人にとって術中の血圧状態が術前の血圧状態より過度に低いものとならないよう配慮した上で血圧目標値の設定を設定し、それに沿った血圧管理を行うべき注意義務がありながら、これを怠り、もやもや病の性質や控訴人の上記個別事情を検討することなく、一般的に正常血圧の範囲内でコントロールされた患者に対する脳外科手術の場合と同様の血圧状態をもって血圧管理を行っても差し支えないと判断したことにより、術中の血圧状態を許容される合理的な血圧範囲から逸脱させ、控訴人にとって術前の血圧状態より過度に低い血圧状態の下で血圧管理を行ったものと認められる。
なお、本件手術において、最低限どのような血圧目標値を設定すれば、控訴人の脳梗塞の拡大、悪化を防ぐことができたかについては、これを具体的に確定することのできる資料はなく、控訴人の主張する「120」が本件手術において唯一絶対的な血圧目標値であったと断ずることもできない。しかしながら、前記認定説示のとおり、被控訴人医師らは、本件手術を実施するに先立ち、術前の血圧状態の評価及び血圧目標値の設定に当たり、もやもや病の性質や控訴人の臨床所見上の個別事情を検討し、控訴人にとって過度に低下した血圧状態にならないよう配慮すべき注意義務があったのであり、そのような注意義務を履行したといえるか否かが法的な争点であって、本件手術において最低限どのような血圧状態を維持すれば脳梗塞の拡大、悪化を回避することができたか否かを確定することができなければ、注意義務違反を認定することができないものではなく、上記認定判断を左右するものではない。
3 争点2(相当因果関係)について
(1)前記認定事実によれば、控訴人は、本件手術において約8時間にわたり収縮期血圧が100前後の状態で維持され、数回にわたり80台となったこともあったところ、本件手術の終了後、麻酔状態から覚醒し病室に戻って間もなく呂律異常や手のしびれ等が見られ、11時30分頃には発語も困難な状態になり、翌日午前0時30分頃に実施されたMRI検査の結果、超急性脳梗塞の所見が認められ、その後も脳浮腫及び脳梗塞の拡大が続き、外減圧手術を実施したものの、顕著な改善には至らず、失語症、右半身の麻痺等の重大な後遺障害が残存したというのであって、このような結果は、もやもや病患者に対する血圧管理において術中の血圧状態が術前の血圧状態より過度に低くなった場合に懸念される危険が現実化したものということができる。そうすると、上記脳梗塞の拡大は、本件手術中の血圧管理が控訴人にとって過度に低下した血圧状態で行われたことが原因となって生じたものと認めるのが相当である。
そして、証拠(乙A4)によれば、控訴人の入院翌日(7月17日午前10時6分)に撮影されたCT画像上、左後頭葉において複数の梗塞部分が近接して点在していたことが認められるところ、本件手術終了直後(7月29日午後7時27分)に撮影されたCT画像では、上記各梗塞部分の輪郭がぼやけて互いに繋がるような所見となり、本件手術の翌日時点(7月30日午前9時8分)には、上記各梗塞部分が一団(一群的)となって左後頭葉から側頭葉にかけて拡大していることが認められ、本件手術から2日後(7月31日午前11時13分)には、上記拡大した梗塞部分が出血性梗塞に悪化していることが認められる。上記のような画像上の所見変化を見ても、術後に確認された左後頭葉から側頭葉にかけての脳梗塞は、本件手術の終了前後頃から拡大を開始したものと認めるのが相当であり、上記認定判断とも整合的ということができる。
なお、控訴人は、控訴人の術前の最低血圧が120前後であったことからすると、被控訴人医師らが、本件手術において、血圧目標値を少なくとも「120/70」に設定して血圧管理を行うべき注意義務があり、そのような血圧管理を行ったならば、術後に認められた脳梗塞の拡大、悪化が生じることはなかった旨主張する。その趣旨は、仮に、被控訴人医師らが、本件手術に先立ち、控訴人の病態、脳血流障害の程度、入院中の血圧値の推移等を踏まえて検討したのであれば、入院中に計測された最低血圧値を踏まえ、少なくとも「120/70」を血圧目標値として設定し、それに従った血圧管理を行ったはずであるから、それにより上記脳梗塞の拡大を回避することができたものとして、血圧管理上の注意義務違反(血圧目標値の設定の過誤)と上記脳梗塞の拡大及びその後に生じた控訴人の後遺障害との間には相当因果関係があることをいうものと解されるところ、これは上記認定説示と同旨であり、控訴人の上記主張は採用することができる。
(2)これに対し、被控訴人は、本件手術後の翌日(7月30日)午前0時30分に撮影された①DWI画像では脳梗塞病巣の検出が認められる一方で、②T1強調像及び③FLAIR画像では上記検出が認められないところ、①の画像では脳梗塞発症から0.5~1時間後に上記検出が可能であり、②の画像では3~4時間以降に、③の画像では4.5時間以降に上記検出が可能とされていること(ディフュージョン・フレア・ミスマッチ所見)からすると、上記脳梗塞は、上記①~③の撮影時刻(7月30日午前0時30分)から遡って4~1時間の間、すなわち、同月29日午後8時~午後11時30分の間に発症したものであり、本件手術中の血圧管理とは関係がない旨主張する。
しかしながら、術後に①の画像において検出された病巣は、術前より存在していた梗塞部分に隣接した部分に認められるところ、前記認定説示のとおり、それらは本件手術の終了前後頃から時間の経過とともに徐々に範囲を広げていることが認められる。そして、もやもや病患者の場合、虚血状態の悪化により直ちに脳梗塞が発症するのではなく、虚血状態の悪化が長時間続くことにより梗塞化が開始され、梗塞部分が拡大していくという経過を辿るとされていることからすると、脳梗塞の拡大が画像上確認できる程度に進行したのは本件手術後であったとしても、その影響は本件手術中より生じていたものと認めて何ら矛盾はなく、本件手術と関係なく進行したものとは認め難い。したがって、被控訴人の上記主張は、前記認定判断を左右するものではない。
(3)また、被控訴人は、仮に、本件手術中の血圧管理が脳梗塞を発症、拡大させる程度に過度の低血圧状態を維持したものであったとするならば、控訴人の左脳(左大脳半球)は右脳(右大脳半球)に比べて60%程度の血流にとどまるものであったことからすると、左後頭葉から側頭葉にかけて脳梗塞が発症、拡大する程度ではなく、他の部分にも脳梗塞が発症、拡大するはずである旨主張する。
しかしながら、前記もやもや病に関する平成21年当時の医学的知見、診察に関する臨床上の実践状況等によれば、もやもや病患者の場合、血流の低下していた脳部分の血流が更に低下した場合であっても、当該脳部分が全て梗塞化するものではなく、部位によって血流の自動調節能の障害の程度に差があり得ることによって、上記脳部分の一部が梗塞化するにとどまることもあるというのであるから(乙B20)、被控訴人の上記主張は前記認定判断を左右するものではなく、採用することができない。
(4)さらに、被控訴人は、本件手術の終了後、控訴人は全身麻酔からの覚醒が良好であったことを前提に、本件手術中に脳梗塞が拡大、悪化したことはあり得ない旨主張する。
しかしながら、本件手術の記録において、麻酔担当医が患者に係る覚醒状況を記載すべき部分に何らの記載もなく(乙▲[26頁])、控訴人の具体的な覚醒状況は判然としない一方で、看護記録によれば、控訴人は「全覚醒」の状態で帰室した旨の記載があるところ(乙▲[163頁])、これによれば、自発呼吸や意思疎通が可能であったことはうかがわれるものの、手のしびれや呂律状態等の神経症状は不明である上、前記認定事実のとおりのもやもや病における脳虚血の進行から脳梗塞の発症に至る特性を考えれば、外形的には全身麻酔からの覚醒に問題がない所見であった一方で、同時並行的に脳虚血の悪化から脳梗塞の拡大に進行しつつあったとしても不自然ではなく、被控訴人の上記主張は採用することができない。
(5)加えて、被控訴人は、もやもや病の血圧管理上の目標値に関して具体的な基準を定めたガイドライン等はなく、また、控訴人の病態は、もはや経過観察を続けるのは適切ではなく、できる限り早期に血行再建術を実施すべき程度にまで進行していたことからすると、本件手術の実施に当たり、具体的にどのような血圧目標値を設定して血圧管理を行えば脳梗塞の拡大を防ぐことができたのかを確定することはできず、控訴人の主張する「120」を血圧目標値として血圧管理を行ったとしても、脳梗塞の拡大を防止することができたとはいえず、被控訴人医師らの血圧管理と控訴人に生じた後遺障害との間に相当因果関係は認められない旨主張する。
しかしながら、控訴人の発症したもやもや病の病態が、左後頭葉の一部が既に梗塞化し、脳血流の阻害状況も大きく、もはや経過観察とすることは適切でない程度にまで進行し、本件手術を行う必要が高い状態にあったと認められる一方で、本件手術においてどのような血圧管理を行ったとしても、上記脳梗塞の拡大、悪化を抑えることができないものであったという事情はうかがわれない(■医師からそのような説明が事前になされていたとは認められず、本件同意書にもそのような記載は見当たらない。)のであるから、被控訴人医師らが、本件手術を実施するに先立ち、控訴人の術前の血圧状態を適切に評価し、それを踏まえて設定された適切な血圧目標値に沿って血圧管理を行った場合、上記脳梗塞の拡大を防止することはできたと認めるのが相当である。そして、本件手術を実施するに先立ち、控訴人の術前の血圧状態を適切に評価し、それを踏まえた血圧目標値を適切に設定するには、控訴人の病態の程度、脳梗塞の進行状況、血圧値の推移等の個別事情を検討することが必要になるところ、仮に、被控訴人医師らがそのような検討を行った場合には、本件手術において、どのような血圧目標値の下で血圧管理を行えば、脳梗塞の拡大、悪化を生じさせることなく本件手術を遂行することができるかが検討され、それにより、本件手術中の血圧管理として、控訴人にとって過度に低下した血圧状態にならないよう配慮されることにより、入院中の血圧値が140台~150台で推移していた控訴人の術前の血圧状態が「120」と評価されることはなく、全身麻酔による一定の脳保護効果を考慮するとしても、「100」まで低下させた血圧目標値が設定されることはなかったといえ、上記のような検討、配慮がなされた上での血圧管理が行われたとすれば、本件手術後に確認された脳梗塞の拡大、悪化という事態に至らなかったと認めるのが相当である。その他、被控訴人は、本件手術後に確認された控訴人の脳梗塞の拡大所見は、本件手術中の血圧管理とは関係のない独立した諸要因によって生じたものである旨主張するが、採用することはできない。
(6)したがって、被控訴人医師らによる本件手術中の血圧管理上の注意義務違反と、本件手術後に生じた控訴人の後遺障害との間には、相当因果関係があると認めるのが相当である。
4 争点3(控訴人の損害)について
(1)控訴人は、本件手術において、被控訴人医師らによる血圧管理上の注意義務違反により、術前の血圧状態よりも過度に低下した血圧状態で維持された結果、脳虚血が進行し、本件手術前の時点で左後頭葉に発症していた脳梗塞が側頭葉にかけて拡大し、脳浮腫(脳腫脹)による脳室変形、更に硬膜下血腫を発症するに至り、外減圧手術を受けたものの、顕著な改善は見られず、右半身麻痺、失語症等の後遺障害が残存したことが認められるところ、上記注意義務違反がなく、術前の脳梗塞が拡大、悪化することなく本件手術を終えることができた場合には、間接吻合術の効果により、少しずつ新生血管が派生し、約2~3か月後には血流の改善が得られ、脳虚血の進行を抑えることができたというべきである。そして、予後に関しては、W1教授の追加意見書(乙B39)によれば、「仮に手術が成功して脳血流の改善が得られた場合は、概ね健常な生活ができたと思われる。」というのであるから、控訴人は、本件手術を終えて2~3か月後には職場復帰することができるとともに、その後の就労可能年数にわたって働くことができたと認めるのが相当である。
そうすると、被控訴人医師らの上記注意義務違反により被った控訴人の損害については、控訴人の主張する損害のうち、本件手術を終えて2~3か月後頃から症状固定日までの休業損害、症状固定日以降の後遺障害逸失利益、後遺傷害慰謝料及び弁護士費用を認めるのが相当であるところ、その具体的な額は、以下のとおりである。
(2)控訴人は、本件手術の当時、I1労働組合に勤務する団体職員であったところ、本件手術を受けた平成21年7月29日から症状固定日である平成23年4月5日までの休業損害のうち、①平成21年度分については、前記のとおり、本件手術を終えて2~3か月後には職場復帰することができたというべきであるから、平成20年度の年収と平成21年度の年収の差額の2分の1を、②平成22年度分については、平成20年度の年収と平成22年度の年収の差額分を、③平成23年度分については、平成20年度分の年収のうち同年4月5日までの収入と平成23年1月1日から同年4月5日までの収入の差額を、それぞれ算定するのが相当であり、その額は、別紙「本件損害額整理一覧表」の「休業損害」欄記載のとおりである。
次に、控訴人の後遺障害の程度が後遺障害等級5級相当であることは当事者間に争いがないところ、平成20年度の年収を基礎年収として、症状固定日(当時40歳)から就労可能年齢(67歳)までの後遺障害逸失利益を計算すると、上記一覧表「後遺障害逸失利益」欄記載のとおりと認められる。そして、控訴人の後遺障害慰謝料は、上記一覧表「後遺障害慰謝料」欄記載のとおり認めるのが相当である。
(3)もっとも、本件手術のうち、間接吻合術自体は成功したとしても、当該手術は対症的な処置であり、狭窄ないし閉塞した脳動脈部分を治癒させるものではなく、既に梗塞化した部分を改善、消失させることはできず、再度、脳動脈の狭窄ないし閉塞が進行、悪化した場合には、その程度に応じて再手術が必要になるところ、このように、本件手術がもやもや病を根治させるものではなく、将来にわたって脳梗塞の発症及び再手術のおそれが残り得ることを考えれば、上記損害額のうち、後遺障害関係の損害分(合計8115万1066円)については、3割を減じるのが相当である。
(4)したがって、控訴人の損害額は、別紙「本件損害額整理一覧表」記載のとおり、弁護士費用603万円を加えて、合計6641万1365円と認めるのが相当である。
5 結論
以上によれば、控訴人の請求は、被控訴人に対し、6641万1365円及びこれに対する訴状送達日の翌日である平成28年10月25日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し、その余は理由がないから棄却すべきである。
よって、これと結論を異にする原判決は相当でないから、原判決を上記のとおり変更することとして、主文のとおり判決する。
なお、被控訴人の申し立てた仮執行免脱宣言は、必要がないから、これを付さない。
大阪高等裁判所第1民事部
裁判長裁判官 山田 明
裁判官 川畑公美
裁判官 井上博喜


