【弁護士法人ウィズ】医療ミス医療事故の無料電話相談。弁護士,医師ネットワーク

京都地方裁判所判決 平成29年(ワ)第3815号

       主   文

 

 1 被告らは,原告に対し,連帯して6222万6960円及びこれに対する平成28年4月18日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

 2 原告のその余の請求を棄却する。

 3 訴訟費用は,これを11分し,その8を被告らの負担とし,その余を原告の負担とする。

 4 この判決は,1項に限り,仮に執行することができる。

 

       事実及び理由

 

第1 請求

   被告らは,原告に対し,連帯して8510万1121円及びこれに対する平成28年4月18日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2 事案の概要

   本件は,亡●が,被告医療法人社団ほう整形外科医院(以下「被告法人」という。)が運営するほう整形外科医院(以下「本件医院」という。)を受診し,本件医院の医師である被告▲(以下「被告医師」という。)から整復治療及びこれに伴う伝達麻酔を受けた後,低酸素脳症となり,後遺障害が残存したことから,●の夫であり訴訟承継人である原告が,被告医師には,麻酔薬の投与等に過失ないし義務違反があると主張して,被告法人に対し,診療契約の債務不履行又は民法715条1項に基づく損害賠償として,被告医師に対し,民法709条に基づく損害賠償として,連帯して8510万1121円及びこれに対する不法行為の日(●が本件医院を受診した日)から支払済みまで民法(平成29年法律第44号による改正前のもの。以下同じ。)所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。なお,●は平成30年4月3日死亡し,原告が訴訟を承継した。

 1 前提事実(争いのない事実,後掲証拠〔特記のない限り,枝番があるものは枝番を含む。以下同じ。〕及び弁論の全趣旨により認められる事実)

  (1) 当事者等

   ア 原告(甲■3ないし7)

     ●(昭和23年6月7日生)は,昭和53年12月20日,原告と婚姻し,子として訴外■及び訴外◆をもうけたが,後記(2)のとおり,平成30年4月3日,死亡した。

     ●の法定相続人である原告,訴外■及び訴外◆は,平成30年8月26日,●の被告法人及び被告医師に対する損害賠償請求権を原告が単独で相続する旨の遺産分割協議をした。

   イ 被告ら

     被告法人は,被告法人肩書地において,整形外科,リウマチ科及びリハビリテーション科を診療科目とする本件医院を開設,運営する医療法人である。ただし,令和2年3月31日に解散した。(争いのない事実,弁論の全趣旨)

     被告医師は,被告法人解散前は,被告法人の理事長であるとともに,本件医院において,上記診療科目を担当する医師であった。また,◇は,被告医師の妻であり,本件医院に勤務する准看護師(以下「看護師」という。)であった(なお,同人が被告法人の清算人となっている。)。(争いのない事実,弁論の全趣旨,乙●7)

  (2) 診療経過等

   ア 平成28年4月18日

     ●は,平成28年4月18日(以下「本件受診日」ということがある。)午前10時30分頃,同月15日の転倒による右肩痛を主訴として,1人で本件医院を受診し,被告医師の診察を受けた。(争いのない事実)

     被告医師は,●の右肩関節をレントゲン撮影し,右肩関節に脱臼があることを確認し,午前11時30分頃,●に対して,局所麻酔剤である濃度1%カルボカインを少なくとも約18mLの用量で投与し(以下,この施術を「本件投与」ということがある。),腕神経叢ブロックをした上で,整復を行った。(争いのない事実,乙●1)

     午前11時45分頃に整復は終了し,再度レントゲン撮影がされるなどしたが,次第に●の容態が悪化した。午後0時15分に救急搬送が要請され,午後0時21分に救急車が本件医院に到着したが,●は,既に心肺停止状態であり,午後0時31分に新河端病院に収容された。(争いのない事実,甲●3,乙●2)

   イ 平成28年4月18日以後

     ●は,本件受診日以後,昏睡状態のまま,新河端病院に入院していたが,平成28年7月22日,長期療養のためになごみの里病院(介護型病棟。以下,「なごみの里病院」という。)に転院し,同年8月4日には低酸素脳症と診断された。転院時の●の身長は159■m,体重は52.7k○であった。●は,意識を回復しないまま,平成30年4月3日午前5時16分頃,死亡し,直接死因は肝臓癌とされていた。(争いのない事実,甲●4,9の1・1ないし7頁,10・2,4,7頁)

  (3) 医学的知見

   ア 肩脱臼及びその整復手法

     外傷性肩関節脱臼は,脱臼した上腕骨頭の位置により前方脱臼,後方脱臼に分けられるが,前方脱臼が90%以上を占める。外傷性前方脱臼の治療は,受傷直後であれば無麻酔でも可能であるものの,全身麻酔(静脈麻酔など)又は局所麻酔(関節腔内に対する局所麻酔薬の注入)により行うこともある。整復方法としては,スティムソン法,ヒポクラテス法,ミルチ法等が用いられる。スティムソン法は,高いベッドにうつ伏せに寝かせ,ベッド端から上腕を下へ垂らし,手に数キロの錘りをくくり付け,5~10分間待ち,それでも整復されなければ,腋下に両手を入れ外側へゆっくり引っ張る手法,ヒポクラテス法は,ベッドにあお向けにし,術者の足を患者の腋下に入れ,母趾で骨頭を外側に押しつつ腕を尾方に引っ張る手法,ミルチ法は,脱臼した上腕骨頭を押さえながら患者の腕を外転させ,拳上位になったときに骨頭を上方に押すとともに患者の腕を上方に引き上げる手法である。(甲▲8ないし10)

   イ 伝達麻酔

     伝達麻酔とは,末梢神経の本幹又は神経叢に局所麻酔薬を注射して,その神経の支配領域の麻酔を得る方法をいう。腕神経叢ブロックもよく用いられる伝達麻酔であるところ,神経ブロック法とは,脳・脊髄神経や交感神経節の近傍に針を刺入して,局所麻酔薬又は神経破壊薬を用いて化学的に,あるいは高周波熱凝固法や圧迫などによって物理的に神経機能を一時的に又は長期的に遮断する方法をいう。また,腕神経叢とは,第5ないし8頸神経の前枝及び第1胸神経の前枝から成るもので,ときに第4頸神経及び第2胸神経より分枝を受け,これらが寄り集まって叢を形成するものである。腕神経叢ブロックの1つである斜角筋間法は,肩,上腕等の手術に適応があり,第6頸椎の高さ(甲状軟骨〔いわゆる喉仏〕の下〔足側〕の輪状軟骨の高さ)において,頸部側方である前斜角筋と中斜角筋との間が刺入点となる。(甲▲7,13,14)

   ウ カルボカイン

     局所麻酔剤「1%カルボカイン(R)注」(以下,単に「カルボカイン」ということがある。

     なお,他に0.5%及び2%の製品がある。)は,1mL中にメピバカイン塩酸塩10m○を含有する注射剤であって,伝達麻酔等に効能がある。メピバカイン塩酸塩(以下,単に「メピバカイン」ということがある。)は,神経膜のナトリウムチャンネルをブロックし,神経における活動電位の電動を可逆的に抑制し,知覚神経及び運動神経を遮断する麻酔薬である。(甲▲1)

   エ 局所麻酔中毒

     局所麻酔中毒とは,局所麻酔薬の血中濃度上昇による中枢神経毒性,心毒性の症状をいう。過量投与,血管内への誤注入,吸収されやすい部位への投与などが原因であり,軽度の症状では口唇のしびれやめまいなどが出現し,血中濃度の上昇により興奮症状の出現,さらに昏睡,呼吸停止,血圧低下などの抑制症状に至ることもある。遅延型,即時型に分類され,遅延型中毒では,血管外に過量投与された局所麻酔薬が血中に移行することによって,血中濃度の上昇に伴い投与後5分から30分経過してから段階的に症状が出現する(なお,即時型では血管内誤注入により,直後に痙攣や循環抑制が生ずる可能性がある。)。(甲▲2,12,19)

   オ 低酸素脳症

     低酸素脳症とは,循環不全又は呼吸不全などにより,十分な酸素供給ができなくなり,脳に障害を来した病態をいう。原因として,心筋梗塞,心停止,各種ショック,窒息などがあげられる。(乙▲2)

 2 争点

  (1) ●が局所麻酔中毒によって呼吸停止等に至ったか(争点1)

  (2) 被告医師の過失ないし被告法人の債務不履行の有無

   ア 手技選択に関する過失ないし義務違反(争点2)

   イ 手技上の過失ないし義務違反(争点3)

   ウ 救命救護の準備と実行に関する過失ないし義務違反(争点4)

  (3) 損害の有無及びその額(争点5)

 3 争点に関する当事者の主張

  (1) 争点1(●が局所麻酔中毒によって呼吸停止等に至ったか)

  (原告の主張)

    ●は,被告医師が行った腕神経叢ブロックによって局所麻酔中毒となり,呼吸停止,心停止から低酸素脳症に至った。新河端病院で採取された●の血液の血清(以下「本件血清」という。)が存在するところ,□大学医学部法医学教室の○教授の報告書(甲▲38)及び鑑定書(甲▲39)によれば,本件血清から濃度2.079μ○/○のメピバカインが検出され,同濃度から推計される最高血中濃度6.05μ○/○及び同6.05μ○/○に対し心肺蘇生時の補液による希釈分を補正した7.26μ○/○は,いずれも中毒濃度に達している上,本件投与後の●の臨床経過(傾眠傾向,開口・直立不可,意識レベル低下,顔色の悪化,いびき様呼吸〔舌根沈下〕など)は,メピバカインの最高血中濃度到達時間と半減期から考えられる経過とよく一致している。また,整形外科専門医であるH医師の意見書(甲▲40)でも同旨の意見が述べられている。

    被告らは局所麻酔中毒以外の原因を指摘するが,H医師もこれを否定している上,新河端病院では頭部■Tの結果により梗塞はなかったとされているし,頭部MRI及び脳波所見による脳幹と大脳の広範な障害は脳幹梗塞によるものではなく,低酸素脳症を原因とするものである。また,心電図中のT波は食事,運動や生理,ストレスに影響されやすく,その異常のみで病気であることを意味するものではないし,心電図所見に変化はなく,血液検査や心エコー等でも心筋梗塞を示す異常は全くない。被告らの指摘する原告が新河端病院でした●の既往歴等に関する説明についても,裏付けを欠くか,その趣旨を正解しないものである上,肝臓の数値は一時的には悪化していたものの改善しており,心臓疾患との関係はない。

  (被告らの主張)

    低酸素脳症の原因には,心筋梗塞,心停止,各種ショック,窒息などが考えられる。そして,新河端病院では,脳梗塞の可能性が診断され,頭部MRIと脳波所見により脳幹と大脳の広範な障害が示唆されているから,脳幹梗塞が原因の疑いがある。新河端病院医師により,●に異常を来しやすい素因や病変があった(又はその可能性もあり得る。)旨の意見が述べられており,心電図所見によれば前壁の心筋梗塞の可能性も疑われている。心不全や不整脈があるかは,ホルター心電図や,特別な採血,冠動脈造影検査をして初めて分かるもので,心エコーが正常であっても,心臓に異常がないことにはならない。また,●の食欲が低下し,体重も60k○であったものが52k○に減少し,全身倦怠感を訴え,歩行が不安定となっていたことに加え,不整脈があるとの診断がされていたとの原告の説明が記録されており,これらは心不全あるいは軽度の低酸素脳症などの基礎疾患があったことをうかがわせるものといえるし,●が過去に受診していた海老沢内科医院(以下「海老沢医院」という。)の血液検査では1回のみ肝臓機能の数値が異常となり,心電図では心筋梗塞又は障害の疑いもあるとされ,心不全などにより肝機能障害が生じていたと疑われる。●の場合,突如,心疾患による血栓や不整脈が出現して,脳幹梗塞を発症した可能性を否定できない。

    原告が提出する○教授の報告書及び鑑定書については,①令和2年8月31日付け原告上申書にいうあるべき正確な鑑定方法と齟齬しており,原告は同教授の報告に信用性がないことを自認しているに等しい,②メピバカインの医薬品インタビューフォーム及び添付文書によれば,メピバカイン500m○の硬膜外投与においては,およそ120分後の血漿中濃度が約2.5μ○/○であるところ,●に対しては500m○の36%である180m○しか投与されていないから,150分後に2μ○/○という濃度になることはあり得ず,また,血中濃度の半減期とされる数値は,無痛分娩時という比較的若く胎児がいる状態の患者に対し,硬膜外投与をした場合に関するものであって,●の血中濃度を推計するものとはならない,③前記添付文書によれば,仮に500m○を硬膜外に投与したとしても,最高血中濃度は5μ○/○程度までしか上昇しないから,180m○しか投与されていない●の最高血中濃度が6μ○/○~7μ○/○になることはない,④メピバカインは速やかに肝臓で代謝されるところ,●は心停止に至っているから,この間,肝臓への血流はほぼなくなり,薬物は代謝されないのであって,血中濃度はほとんど低下しないといえ,仮に150分後の血中濃度が2μ○/○であるとしても,心停止によりその血中濃度が維持されていたと考えられる,といった点が指摘でき,信用性を欠くというべきである。また,原告が提出するH医師の意見書についても,上記のとおり信頼性を欠く○教授の見解に基づくものである上,●に対しては静脈又は血中への投与はされていないのに,「静注致死量」「全量が血中に投与されれば」などとの記載があること,本件投与後の●の容態について,5分以内に眠いとの訴えがあったとしていること,硬膜外麻酔における髄液中の血中濃度を伝達麻酔である本件にあてはめていること,縮瞳を局所麻酔中毒の症状としていること,午前11時45分に最高血中濃度となったとする根拠を欠いていることなどの点で誤っており,これも信用性がないというべきである。

  (2) 争点2(手技選択に関する過失ないし義務違反)

  (原告の主張)

    H医師の意見書にもよれば,肩関節脱臼の整復として,スティムソン法であれば痛みも少なく回復でき,徒手整復ができない場合には静脈麻酔(半分,全身麻酔のようなもの)を行うこともある一方で,腕神経叢ブロックは,確実性と安全性のためには超音波ガイドを用いるなど熟練を要し,全身麻酔下での整復ができないごく限られた場合に限定されるから,●に対して腕神経叢ブロックを行う必要性はなかった。被告らは整復困難であったと主張するが,わずか10分程度の間にスティムソン法,ヒポクラテス法,ミルチ法の全てを試みることは不可能である。被告医師は,無麻酔による整復を十分に行わず,静脈麻酔によることもせずに,不要な伝達麻酔を,安全性を確保せずに行った過失がある。

  (被告らの主張)

    被告医師は,問診により持病,投薬がないことを確認した後,●の右肩関節を座位によりレントゲン撮影して脱臼整復が必要と判断し,鍼灸師とともにヒポクラテス法,ミルチ法,スティムソン法を試みたものの,脱臼後2日以上経過しており,10分程度経過しても整復困難であったから,腕神経叢ブロックを行った。臨床現場において,スティムソン法で15分から20分も待つということはないし,肩脱臼の整復は,上肢手術であるから,腕神経叢ブロックが有用である。

  (3) 争点3(手技上の過失ないし義務違反)

  (原告の主張)

    H医師の意見書等によれば,腕神経叢ブロックは,針刺入部が椎骨動脈や脊髄に近く,局所麻酔中毒が生じる可能性を常に念頭におかれなければならないのであって,透視室で透視を見ながら超音波ガイドを用いて,針の先端を確認しつつ,行われるべきである。また,10mL程度で痛みは和らぐはずであって,18mLものカルボカインを投与する必要はないし,この点を措くとしても,投与に当たっては,少量の分割投与を行い,異常がなければ残りをゆっくり投与すべきである上,椎骨動脈や硬膜外腔,くも膜下腔に入らないように,注射針を水平ではなく,やや尾側(足側)に向けて刺入する必要がある。それにもかかわらず,被告医師は,超音波ガイドを用いず,1回で18mLのカルボカインを投与し,表皮に対して垂直,つまり水平に針を刺入したのであるから,これらの点で過失がある。

  (被告らの主張)

    被告医師は,●をあお向けにして,顔を左に向けて右第6横突起を触れながら,その1■m上の表皮と垂直に約2■m針を刺し,右上肢にびりびりと刺激痛があったところで,カルボカインを投与した。この際,脈拍,血圧,会話等のバイタルサイン,血液の逆流がないかなどを確認している。また,刺入した針は固定し,そこから少量ずつ薬剤を注入した。

  (4) 争点4(救命救護の準備と実行に関する過失ないし義務違反)

  (原告の主張)

    H医師の意見書等によれば,伝達麻酔を行う際には,中毒が起こる可能性が常にあることを予見し,常時救急処置のとれる準備を行うべきであり,事前に静脈の点滴ルートを確保し,挿管器具やバッグバルブマスク(アンビューマスク),昇圧剤などを備えた救急カートを準備し,心電図,血圧,酸素飽和度のチェックをし,呼吸状態が悪化すればバッグバルブマスクや挿管ができるように準備する必要がある。また,腕神経叢ブロック後の●の傾眠傾向やいびき様呼吸からは中毒が疑われるから,点滴ルートからの補液をするとともに,バイタルサインのモニターから異常を察知して,酸素投与,バッグバルブマスク換気あるいは気管挿管を行うべきであった。以上にもかかわらず,本件医院で緊急時の準備がされていたり,バイタルのモニター管理が行われていた痕跡は全くなく,被告医師は,●の呼吸停止に気付いてからようやく血圧を確認しただけで,モニター管理を怠っており,また,酸素投与,バッグバルブマスクの使用をせず,気管挿管もしなかったのであって,これらの点で過失がある。また,H医師は,直ちに血中薬物は代謝され,一般的には,30分から1時間程度(麻酔薬が硬膜外腔等に入った場合は,1ないし2時間程度)で症状は改善してくるため,その間の呼吸・循環状態を補助して安定化させれば,正常な状態に戻るとし,本件では傾眠傾向からいびき様の呼吸が出現してきた時点でマスク換気や気管挿管によって酸素化を行っていれば,心停止に至らず,低酸素脳症にならなかったとしているから,結果回避可能性もあった。

    被告らは,心臓マッサージを行い,バッグバルブマスクも用いたとも主張するが,被告医師が心臓マッサージを行い,自らが換気を行う際には看護師に心臓マッサージを行わせていたというのであって不自然である上,救急隊到着時にはバッグバルブマスクが使用されていなかったことが判明している。

  (被告らの主張)

    本件医院では,緊急時の対応のために,血圧計,点滴用具,バッグバルブマスク,パルスオキシメーター,挿管セット等を常備していた。事前に点滴ルートは確保していなかったが,一般的に伝達麻酔で確保すべき事項ではない。また,●は直前まで会話などはできていたのに,急に呼吸停止,心停止となったのであり,これに対し,被告医師は,心臓マッサージ及びバッグバルブマスクによる換気(換気時は看護師が心臓マッサージをした。),血圧測定といったバイタルチェックをした。この間に救急車の要請も行っている。意識回復はできなかったが,●の血圧は一旦90に上昇し,脈拍は確認された。搬送先での採血の結果においても,肝臓の数値は正常であり,心臓の機能はすぐに他動的にも動いていたといえるから,これらの点は,迅速な救命措置がされたことを示すものである。

  (5) 争点5(損害の有無及びその額)

  (原告の主張)

    原告は,●に生じた以下のとおりの損害に係る損害賠償請求権を相続した。

   ア 治療費 32万5308円

     ●は,被告医師の麻酔施術により低酸素脳症となり,その治療のために新河端病院において入院治療を受けた。

     上記治療に要した費用は,平成28年4月18日から同年7月22日までの間,合計32万5308円であった。

   イ 入院雑費 14万4000円

     ●は,前記アの新河端病院に入院中,下記計算式のとおり,合計14万4000円の入院雑費を支出した。

  (計算式)

     1500円(日額)×96日(平成28年4月18日から同年7月22日までの間)=14万4000円

   ウ 付添看護費用 62万4000円

     原告は,前記ア及びイの●の入院中,同人が遷延性意識障害の状態であったから,付添い看護を行なったところ,その費用は,次のとおり,合計62万4000円となる。

   (計算式)

     6500円(日額)×96日(平成28年4月18日から同年7月22日までの間)=62万4000円

   エ 休業損害 98万0278円

     ●は,被告医師による麻酔により受けた低酸素脳症の傷害の症状が固定するまでの間(平成28年4月18日から同年7月22日),傷害及びその療養のため,主婦として炊事,洗濯,掃除などの家事ができなかっただけでなく,原告が経営するクリーニング店の手伝いもできなかった。

     そのため,●は,次の計算式のとおり,98万0278円の休業損害を被った。

  (計算式)

     372万7100円(基礎収入である,賃金センサス〔平成27年,女子学歴計・年齢計〕の平均年収額)×(96日〔平成28年4月18日から同年7月22日まで〕÷365日)=98万0278円(円未満切り捨て。以下同じ。)

   オ 後遺障害逸失利益 2877万9548円

     ●の低酸素脳症は,平成28年7月22日には症状が固定したといえるところ,前記エのとおりの基礎収入を前提に,平均余命21.33年の約半分の10年に相当するライプニッツ係数7.7217により,後遺障害等級1級1号(神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し,常に介護を必要とするもの)の労働能力喪失率100%として,●の後遺障害逸失利益を算定すると,次のとおり,2877万9548円となる。

   (計算式)

     372万7100円(基礎収入)×100%(労働能力喪失率)×7.7217(平均余命の約半分である10年に相当するライプニッツ係数)=2877万9548円

   カ 入院慰謝料 150万円

     原告は,被告医師及び被告法人の麻酔に関する過失及び義務違反によって,96日間(平成28年4月18日から同年7月22日)にわたって,新河端病院での入院を余儀なくされ,精神的苦痛を被った。

     その精神的苦痛に対する相当な慰謝料は,150万円を下らない。

   キ 後遺障害慰謝料 3000万円

   ク 介護費用 274万7987円

     ●は,遷延性意識障害の状態に陥り,平成28年7月から平成30年4月3日までの間,介護を受けざるを得なくなり,合計274万7987円の介護費用を要した。

   ケ 弁護士費用 2000万円

   コ 合計 8510万1121円

  (被告らの主張)

    争う。なお,なごみの里病院では,入院時の疾病名には高血圧,脂肪肝,右乳癌術後,高脂血症などが含まれており,直接死因は肝腫瘍(肝臓癌)とされているから,●の入院生活は低酸素脳症のみを原因とするものではなく,その限りで損害との因果関係を欠いている。

第3 当裁判所の判断

 1 認定事実

   前提事実に加え,後掲記載の証拠及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。

  (1) ●の血中薬毒物濃度等(事実認定の補足説明は後記2のとおり。)

    ●からは,本件受診日午後1時57分,血液が採取されて,その血清(本件血清)が保存されていた(甲●9の1・12頁,16・2頁)。同血清からはメピバカインが検出され,その濃度は2.079μ○/○であった。メピバカインの最高血漿中濃度到達時間が15分であること(甲▲1・13頁〔本文9頁〕)からすると,●については,本件受診日午前11時30分投与のメピバカインが同日午前11時45分には最高血中濃度に到達したと考えられるところ,前記血中濃度2.079μ○/○にメピバカインの半減期が81.5分であることも勘案すれば,同日午前11時45分における●のメピバカイン血中濃度は6.05μ○/○と推計される。また,本件血清のヘマトクリット値(血液全体に占める赤血球の容積比率)がH■t33.2%であった一方(甲●16・2頁),本件受診日前後はH■t40%前後で推移していること(甲●5の1・100ないし118頁,9の1・408頁,16)からすれば,本件血清には治療中の補液による1.2倍程度の希釈があったと考えられるから,同日午前11時45分における●のメピバカイン血中濃度は7.26μ○/○であったと補正される。そして,メピバカインは5~6μ○/mL(インタビューフォーム〔甲▲1・14頁〕によれば,4.01~6.15μ○/mL以上)の血中濃度で中毒症状を発症し得るとされるから,●の血清における前記の推計値及び補正値は中毒濃度に達していたと判断できる。また,後記(2)の伝達麻酔後の●の容態も,本件受診日午前11時30分のメピバカインの投与,同日午前11時45分と推測される最高血中濃度到達時間及び半減期から考えられる経過とよく一致する。(以上につき更に甲▲38,39〔○教授の報告書及び鑑定書〕)

  (2) ●の伝達麻酔後の様態

    本件医院の医療記録には,本件投与後の本件受診日における●の容態について,以下のとおりの記載がある(以下の乙●1とは本件医院のカルテ,乙●2とは本件医院看護師作成のメモである。)。

   ア 午前11時45分頃

     整復完了後,会話や手足の動作はできるが,少し眠そうなので車いすにて移動する。不整脈もなく,脈拍は68であった。(乙●2)

   イ 午後0時05分頃

     「眠たい」と言い,少し眠そうにするので,看護師などが「しっかり目を覚まして」と声かけを行った。脈はしっかりしていた。(乙●2)

   ウ 午後0時07分頃ないし0時10分頃

     整復の完了を確認するためレントゲン撮影を行ったが,少なくとも開口し,座位により背骨が曲がった状態であった(争いのない事実)。傾眠傾向があり,意識レベルは低下して,少し顔色も悪かった(乙●1,2)。

   エ 午後0時14分頃

     車いすにて移動し,途中,いびきを2回発した。(乙●2)

   オ 午後0時15分頃

     更に顔色が悪く,呼吸停止,心停止に至り,縮瞳を来した。心臓マッサージをしても,血圧は90で,脈拍は40と弱かった。本件医院から救急要請がされた。(甲●3,乙●1,2)

   カ 午後0時21時頃

     救急隊到着時,ベッド上に仰臥位に寝かされており,バッグバルブマスクは使用されていなかった。■P●(心肺停止)であり,散瞳していた。(甲●15の2,乙●2)。

   キ 午後0時37分頃ないし午後1時15分(又は30分)頃

     救急隊により心マッサージをされつつ,新河端病院に到着し,心マッサージが続けられるとともに,気管内挿管によるアンビューバッグにて人工呼吸が施行され,補液もされたところ,自発心拍が戻った。ノルアドレナリンの点滴がされており,病棟への入室後に血圧も復帰した。(甲●3,9の1・11,1150頁)。

   ク 午後6時38分頃

     心電図(◇■○)は,V1ないし6でT波が陰転化しているが,「ST」の変化はなかった。血液検査によれば,腎臓及び肝臓の異常はなかった。心拍は戻っているが,意識はなく,低酸素脳症の状態だが,脳梗塞も否定できなかった。(甲●9の1・11,428頁)

  (3) ●に対するその後の治療経過等

    本件受診日以後の●に対する検査結果及び医学所見は次のとおりと認められる。

   ア 平成28年4月19日

     午後2時03分頃の心電図によれば,V3ないし5等でT波陰性があり,前側壁心筋虚血の疑いがあるとされるも,午後4時00分の診断では◇■○(心電図)によればV1ないし6でT波陰転があるが,昨日と著変はなかった。また,頭部■Tの結果,低酸素脳症が疑われるところ,明らかな新鮮梗塞や出血は指摘できず,出血や梗塞と思われる低吸収域,明らかな脳浮腫の増強はなかった。(甲●9の1・14,430頁,14・1,2頁)

   イ 同月20日

     海老沢医院における過去の心電図によればV1ないし3でT波の陰転化があるが,当日の心電図と著変はなかった。(甲●9の1・17頁)

   ウ 同月25日及び26日

     頭部MRIと脳波所見より,脳幹と大脳の広範な障害が示唆されたが,頭部MRIの結果としては,状況より低酸素脳症が疑われ,頭蓋内に明らかな出血,新鮮梗塞,占拠性病変を指摘し得なかった。(甲●9の1・28頁,14・3頁)。

     また,心エコー(及び胸部,全腹部の■T)により,心筋梗塞,肺動脈血栓塞栓症(及び静脈血栓)を疑う所見はなく,結局,ショックを来し得るような疾患は発見されなかった(甲●9の1・28ないし30頁,14・4,5頁)。

  (4) 局所麻酔薬投与に関する医学的知見

   ア 局所麻酔薬投与

     カルボカインの医薬品インタビューフォーム及び添付文書には,別紙「カルボカインの医薬品インタビューフォーム(抜粋)」のような記載がある。(甲▲1)

     また,腕神経叢の付近には,硬膜外腔,くも膜下腔,椎骨動脈といった動脈など重要な組織,器官が隣接している(甲▲13・7頁,14・4,5頁,18・4ないし6頁,30・3,4頁)。腕神経叢に対する局所麻酔薬の投与は,硬膜外に対するものの次に,麻酔薬の血中濃度が上昇しやすい(甲▲4・4頁,19・5頁の図)。

     H医師は,腕神経叢ブロックについて,次のとおり説明する(甲▲40〔H医師の意見書〕・7,8頁)。まず,腕神経叢ブロックは,注射針刺入部付近に椎骨動脈や脊髄等があることから,局所麻酔中毒を生ずる可能性が常にあり,透視室で透視を見ながら超音波ガイドを用い,針の先端を確認しながら行うべきである。超音波ガイドなしでは通常行わない。また,注射針の刺入方向は,椎骨動脈,硬膜外腔,くも膜下腔に入る水平方向ではなく,やや患者の尾側(足側)に向けるべきである。さらに,麻酔薬の投与前には,放散痛の有無により針先が神経に近いことを確認し,血管内に針先がないことを確認するため,少量の吸引により血液の逆流がないことを確かめた上で,まず薬剤を1mL程度投与してみて,異常な痛みや気分不快がないかを確認した後に,残りの薬剤をゆっくりと投与する。1%カルボカインであれば,10mL程度で肩の痛みは和らぐはずであり,18mLも投与する必要はない。加えて,医学的文献には,局所麻酔中毒一般の予防として,分割投与を行うとするもの(甲▲5・3頁,19・5頁)があることに加え,腕神経叢ブロックについては,吸引テストで血液が引けなかったからといって,針先が血管内にあることを完全に否定できるわけではなく,少量の薬剤を注入して患者の様子を観察し,問題なければ薬剤の注入を行うという慎重さが必要とするもの(甲▲13・6頁),逆流テストでは血管穿刺を確実に否定できないため,ゆっくりと少量ずつ注入することが重要とするもの(甲▲16・2頁),超音波使用を前提とはしているが,吸引して血液の逆流がないことを確認し局所麻酔薬を少量(1~2mL)分割注入するとするもの(甲▲15・3頁),同じく超音波使用を前提とはしているが,中斜角筋の筋膜を貫いたところで少量の薬液を投与し,適正な薬液の広がりを確認できたら,残りの薬液を分割投与するとするもの(甲▲19・13頁)がある。

   イ 局所麻酔中毒の治療

     肝機能に異常がない限り,呼吸及び循環を維持することで局所麻酔薬の血中濃度が代謝により速やかに減少することから,局所麻酔中毒の治療は,バイタルサインの確認とともに,バッグバルブマスク等による呼吸管理,点滴ルートによる補液を行うことによる。痙攣,血圧低下,心停止又は心毒性に対しては,痙攣抑制剤,昇圧剤,脂肪乳剤等の投与といった処置を行う。呼吸及び循環の補助を行えば,血管への誤注入では30分から1時間程度,硬膜外腔やくも膜下腔に局所麻酔薬が入ってしまっている場合でも,1ないし2時間程度で,正常な状態に戻る。(甲▲2,3・3頁,4・4頁,19・5,6頁,40〔H医師の意見書〕・8ないし10頁)

 2 事実認定の補足説明

   被告らは,上記1(1)に掲記の甲▲38,39(○教授の報告書及び鑑定書)について,第2の3(1)のとおり,①令和2年8月31日付け原告上申書にいうあるべき正確な鑑定方法と齟齬している,②メピバカイン500m○の硬膜外投与においては,およそ120分後の血漿中濃度が約2.5μ○/○であるところ,500m○の36%である180m○しか投与されていない●について,150分後に2μ○/○という濃度になることはあり得ないし,血中濃度の半減期とされる数値は,無痛分娩時という比較的若く胎児がいる状態の患者に対し,硬膜外投与をした場合に関するものであって,●の血中濃度を推計するものとはならない,③仮に500m○を硬膜外に投与したとしても,最高血中濃度は5μ○/○程度までしか上昇しないから,180m○しか投与されていない●の最高血中濃度が6μ○/○~7μ○/○になることはない,④メピバカインは速やかに肝臓で代謝されるところ,●は心停止に至っているから,この間,肝臓への血流はほぼなくなり,薬物は代謝されないから,血中濃度はほとんど低下せず,仮に150分後の血中濃度が2μ○/○であるとしても,心停止によりその血中濃度が維持されていたと考えられると主張して,甲▲38,39(○教授の報告書及び鑑定書)の内容を論難する。

   しかし,上記①(正確な鑑定方法との齟齬)について,原告の上記上申書では「③□大学と同等もしくはそれ以上の機器を用いて正確な分析が可能な施設であること」を再鑑定の条件としており,□大学在籍である○医師と異なる鑑定手法を前提としているとは解されず,被告らの主張は前提を欠くものというべきである。上記②(150分後の血中濃度が2μ○/○になることがあり得ないこと),③(180m○の投与により,最高血中濃度が6μ○/○~7μ○/○になることはないこと)については,むしろ,血管内又はこれに吸収されやすい部位に局所麻酔薬が投与されたがゆえに,高い血中濃度が検出されたと考えられるから,被告らの指摘は当たらない。さらに,被告らが提出する証拠(乙▲10・15頁〔本文10頁〕)によっても,明示はされていないものの,カルボカインの血中濃度推移として記載されているグラフは,最高血中濃度の半減期が81.5分であるとしても特に矛盾があるとはいえず,また,投与対象者の年齢や投与される部位の差異による半減期の変動を明らかにする的確な証拠もないから,被告らの上記各主張を採用することはできない。上記④(心停止により血中濃度が維持されていたと考えられること)については,被告らの主張によっても,●に対しては,本件医院において心マッサージが行われ,さらに救急隊到着後も心マッサージが続けられ,新河端病院では心蘇生を果たしていることを考慮すると,●の体内循環は一定程度継続していたと解されるのであって,●の心停止時間が血中濃度の推移に有意な影響を及ぼしたと認めるには至らないから,被告らの上記主張も採用できない。

   また,被告らは,H医師の意見書の内容についても種々主張するが,少なくとも,上記1(4)アイにおける腕神経叢ブロックの手技や局所麻酔中毒の治療に関する見解についての指摘をするものではなく,上記認定を左右するものではないというべきである。

 3 争点1(●が局所麻酔中毒によって呼吸停止等に至ったか)

   上記認定事実(1),(2)によれば,本件投与の後,メピバカインの血中濃度は中毒域に達していた上,本件投与後心肺停止に至るまでの容態の変化は局所麻酔薬による中毒症状及び推計される同薬血中濃度の推移に整合することからすれば,●は,本件投与によって局所麻酔中毒を生じ,これにより呼吸停止及び心停止に至ったと優に認めることができる。この点,H医師の意見書(甲▲40)も,本件投与後ほどなくして「眠い」という訴えが始まり,20分ないし30分後には閉眼して立位できておらず,整復後のレントゲン写真では開口・脱力状態になっていて,34分ないし44分後には呼吸抑制による舌根沈下でいびき様呼吸が出現しており,15分後ないし44分後の時間帯に血中濃度が最高濃度になっている可能性が高いとして,局所麻酔中毒であることを疑う余地はないとしている。

   また,上記前提事実(2)イ及び認定事実(2),(3)によれば,その後,●は,蘇生術により心拍を再開したものの,本件受診日には既に低酸素脳症状態にあり,昏睡状態のまま数か月後には低酸素脳症と診断されているから,前記呼吸停止等により低酸素脳症に至ったと認められる。

   以上に対し,被告らは,局所麻酔中毒以外の原因による可能性を主張する。しかし,いずれもカルテ等のごく一部をとらえて抽象的な可能性がある旨を指摘するにとどまり,局所麻酔薬の血中濃度及び本件投与後の容態を根拠とする上記認定を覆すものとは言い難い。念のため,被告らの主張を検討しておくと,上記認定事実(2),(3)のとおり,本件受診日時点では脳梗塞も否定できないとされていたものの,その後に各種検査を行っても,脳梗塞や心筋梗塞といった疾患を疑わせるに足る所見の発見には至らず,結局,その可能性があったとは認められない。。また,「患者さんに,異常をきたしやすい素因や病変があった可能性もあり得る。」(甲●9の1・1599頁,新河端病院における担当医師の原告に対する説明)というのは,平成28年4月20日時点において,麻酔医の一般的知識として伝えられたものに過ぎないと認められ,その後の検査によって素因や病変の可能性は否定されている(なお,「カルボカイン200m○は多い量ではない。」〔同頁〕というのも,一般論を述べるものにすぎず,●の年齢や被告医師の手技を考慮した上での確定的な意見を述べたものとは認められない。)。さらに,証拠(甲●9の1・12頁)によれば,原告が平成28年4月18日に新河端病院においてした説明は,単に,専門家でない素人的な判断として,食欲低下,体重の減少,歩行不安定,不整脈があったというものに過ぎないと認められ,●の年齢からすれば,その程度の体調の変化は疾患によらずとも生じ得ると考えられるし,本件受診日において同人が1人で本件医院を来訪することができていたことにも鑑みれば,本件での認定を左右するような具体的な疾患の存在を疑わせるものとは認め難い。加えて,証拠(甲●9の1・1194頁)によれば,●については,平成27年6月ないし8月に著明肝障害等が出現したものの,平成28年1月の検査では軽快したと認められるのであって,上記認定事実(2)クのとおり,本件受診日には肝臓の異常はなかったことにも照らせば,これも具体的な疾患の存在を疑わせるものとはいえない。他方,証拠(甲●6・20頁〔海老沢医院の健康診査受診結果通知表〕)によれば,平成27年10月22日には,心電図検査により「心筋梗塞又は障害」とされてはいるが,身体計測,血圧等を含めた一般的な健康診査の結果にすぎず,これらの疾患を想定した精密な検査がされた上での診断とは認められないし,これらの疾患に対する特段の治療がされたことを認めるに足りる的確な証拠もないことにも照らせば,本件受診日以後における医学所見に関する上記認定を覆すものとまでは認められない。

 4 争点3(手技上の過失ないし義務違反)

   上記認定事実(4)アによれば,カルボカインの投与に際しては,局所麻酔中毒を避けるために,まず,注射針からの血液の逆流がないことを確認した上で,薬剤投与に当たって,投与対象者の血圧,呼吸,顔色といった全身状態を観察しつつ,必要最小量を,可能な限り速度を遅くして注入すべき注意義務があると認められ(認定事実(4)アにおける別紙記載第5の2(1)1)3)5)),特に,忍容性の低下といったリスクファクターを有する高齢者に対する投与(同第5の1),腕神経叢ブロックのような血中への薬剤吸収を高め得る組織が付近にある部位への投与(認定事実(4)ア)においては,上記各点をより慎重に行うべき注意義務があったというべきである。具体的に本件においてこれを見れば,被告医師は,●に対し,整復に必要な最小限度の投与を,全身状態の観察により異常(血圧,脈拍,呼吸に加え,気分不快等の有無)や薬効の程度を確認しつつ,まずは少量の投与を行うなど,可能な限り速度を遅くして(たとえば分割投与等も含めて)行うべき注意義務があったと認めるべきである。この点,インタビューフォーム等においては,試験的な少量投与,分割投与は,直接には局所麻酔薬投与と併用される鎮静薬等についての留意事項とも解されるが(前記別紙記載第5の2(1)7)),上記認定事実(4)アにおけるH医師の見解及び医学的文献の記載からすれば,局所麻酔薬自体においても,特に高齢者に対する腕神経叢ブロックにて使用する場合には,薬剤を可能な限り速度を遅くして投与する方法の一つの態様として,試験的な少量投与及び分割投与も含まれると認めるのが相当である。

   そこで,本件投与について検討すると,被告医師等による説明は,1回の注射針の刺入により18mLを投与したが,その際,「一気に注入するのではなく,少しずつ注入した。」「一気に注入するのでは無くゆっくり注入しています。」「顔色を見るなどして,急変に対応できるように注意深く観察(した。)」(乙●6〔被告医師の陳述書〕・2頁,7〔本件医院看護師〔◇〕の陳述書〕・3頁)というにとどまり,「ゆっくり」注入したといっても,感覚的な表現の域を出るものではなく(上記各陳述書は,当事者又はこれに近い者により作成されたものであり,反対尋問を経たわけでもなく,その信用性は慎重に判断せざるを得ない。),上記の注意義務を充足するものであったことを裏付けるものとは言えない(少なくとも,顔色以外の全身状態を具体的に観察することをしていたとは認められないし,少量を試験的に投与することをしていたわけでもない。)。以上に加え,投与量が伝達麻酔の通常成人に対する参考使用量の上限20mLに近いものであったこと,その他前記の血中濃度や中毒症状の経過等も総合すると,被告医師は,本件投与に際し,上記注意義務に反したと認めるほかないというべきである。

   なお,原告は,超音波ガイドの使用や注射針の刺入方向についても主張する。確かに,本件医院では超音波ガイドを使用せず,「右第6横突起を触れながら,その1■m上に『表皮と垂直に』約2■m針を」刺入したとするのみで,あえて尾側に刺入したとは説明されていないが(乙●4,6),原告提出の証拠においても,超音波ガイドの使用が望ましいとされているにとどまっていたり(甲▲7・4頁),「皮膚に垂直」に刺入するとの表現自体は見受けられる上(甲▲13・5頁,14・5頁,17・4頁),本件医院のような整骨医院での超音波ガイドの導入実績や,注射針の刺入方向と硬膜外腔,くも膜下腔,椎骨動脈との詳細な位置関係を明らかにする的確な証拠はない。そうすると,原告の上記主張は,被告医師が,上記注意義務のほかにも,局所麻酔中毒を防止するための特段の手段を講じていなかったとの事情をいうものに過ぎないから,特に本件の認定判断を影響するものとはいえない(超音波ガイドを使用していない場合には,より慎重な手技が求められると言えなくもないが,その点を考慮するまでもなく,被告医師の過失が認められる。)。また,上記認定事実(1)のとおり,●の局所麻酔薬血中濃度が6.05ないし7.26μ○/○という一般的な中毒域濃度からしても比較的高いものに至っていることに加え,上記注意義務違反の態様及び弁論の全趣旨にも鑑みると,上記注意義務を履践していれば,●の呼吸停止,心停止は避けられた高度の蓋然性があるといえ,かつ,結果回避可能性もあったと認めるのが相当である。以上によれば,被告医師には手技上の注意義務違反ないし過失があったと認められる。

   なお,念のため,争点4(救命救護の準備と実行に関する過失ないし義務違反)についても検討しておくと,上記認定事実(2)によれば,●は本件投与後約15分で既に眠気を生じており,車いすでの移動が相当と判断される状態であったところ,認定事実(4)ア(このうち別紙記載第5の3,4)によれば,眠気は局所麻酔中毒の初期症状の可能性があるのであるから,既にこの段階で酸素飽和度などを含めた全身状態の確認等がされるべきであり,呼吸の維持や酸素投与等を含めた処置も検討の余地があったともいえ,その後も継続して傾眠傾向が見受けられ,意識レベルの低下等を来していったというのであるから,こうした対応の必要性は経時的に高まっていったものと認められる。さらに,上記認定事実(2)によれば,●は,傾眠傾向にありながらも初期は脈もしっかりしており,救急搬送後は特殊な手技を要せずに1時間前後で蘇生されるに至っているのであって,これらの事情に加え,上記認定事実(4)イのとおりの局所麻酔中毒の治療に関する医学的知見にも照らすと,救急搬送の要請や,バッグバルブマスクの使用等による換気,点滴による補液を早期に行うことで,●が呼吸停止,心停止に至らなかった可能性は高かったと推認される。これに対し,被告らはバッグバルブマスクの使用等を主張するが,これは被告らの主張によっても●が呼吸停止,心停止するに至った後の処置であったに過ぎないし,上記認定事実(2)カのとおり,救急隊到着時にはバッグバルブマスク等は使用されていなかったのであって,被告医師らが継続的に呼吸,循環の維持に努めていたとは認め難い。以上によれば,被告医師には,救命の実行の点においても過失があったと十分に認め得るといえる。

 5 争点5(損害の有無及びその額)

  (1) 治療費        32万5308円

    証拠(甲■1)によれば,本件投与により●に治療費として32万5308円の損害が生じたと認められる。

  (2) 入院雑費       14万4000円

    上記前提事実(2)のとおり,●は,平成28年4月18日から同年7月22日までの合計96日間,新河端病院に入院していたのであり,また,入院雑費は日額1500円と認めるのが相当であるから,本件投与により●に入院雑費として14万4000円(96日×日額1500円)の損害が生じたと認められる。

  (3) 付添看護費用     38万4000円

    弁論の全趣旨によれば,原告は,平成28年4月18日から同年7月22日までの合計96日間,●が意識不明の重篤な状態であったため,同人の入院付添い看護を行ったと認められる。原告の介護内容の詳細を明らかにする的確な証拠はないものの,原告が適宜医師らと面談するなどし,●の転院の手配にもかかわるなどしていたこと等(甲●9の1・1ないし7頁)にも鑑みれば,付添介護費用として日額4000円に限り相当因果関係のある損害と認めるのが相当である。したがって,本件投与により●に原告による入院付添看護費用として38万4000円(96日×日額4000円)の損害が生じたと認められる。

  (4) 休業損害       77万3049円

    上記前提事実(2)及び認定事実(2),(3)によれば,●は,新河端病院において急性期を脱した上,長期療養のためになごみの里病院に転院したと認められ,これに弁論の全趣旨を考慮すれば,同病院への転院の日である平成28年7月22日が症状固定日であると認められる。

    また,証拠(甲■9,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,●は原告が経営するクリーンニング店を手伝いながら,家事全般を一人で行っていたと認められる。しかし,本件において,同クリーニング店の規模や運営状況の詳細を明らかにする的確な証拠は提出されていない。さらに,証拠(甲■3の4ないし6,原告本人)によれば,原告と●との間の子2名は既に自身の家庭を有するなどして原告らの家計から独立していたと認められるし,原告自身が66歳であったことや,●が一般的な労働能力の終期とされる67歳を既に迎えていたことにも鑑みると,同クリーニング店での業務及び原告及び●2名の家計における家事労働を女性全年齢平均により評価することが適切とは認められない。以上によれば,●の基礎収入については,293万9200円(平成28年,学歴計・女性65歳から69歳平均賃金)の限度でこれを認めるのが相当である。したがって,●には休業損害として77万3049円(96日÷365日×293万9200円。端数切捨て。)の損害が生じたと認められる。

  (5) 後遺障害逸失利益 2269万5620円

    ●は低酸素脳症により昏睡状態になったのであるから,その後遺障害は自動車損害賠償保障法施行令別表第1にいう「神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し,常に介護を要するもの」に当たり,100%の労働能力を喪失したと認めるのが相当である。また,●は上記症状固定の日において68歳であり,平成28年の平均余命21.73年に2分の1を乗じた10年(端数切捨て)を労働能力喪失期間の終期とすべきである。そして,これに対応するライプニッツ係数は7.7217である。

    以上に加え,●の基礎収入が上記(4)のとおりと認められることを考慮すれば,本件投与により●に後遺障害逸失利益として2269万5620円(293万9200円×100%×7.7217。端数切捨て)の損害が生じたと認められる。

  (6) 入院慰謝料     150万0000円

    ●は,上記96日間,昏睡状態で入院していたのであるから,本件投与により●には入院慰謝料として原告が主張する150万円を限度とする損害が生じたと認めるのが相当である。

  (7) 後遺障害慰謝料   2800万0000円

    ●に生じた後遺障害の内容は上記(5)のとおりであり,これによれば,本件投与により,●には後遺障害に対する慰謝料として2800万円の損害が生じたと認めるのが相当である。なお,●が比較的日常的な施術により昏睡状態に至ったことや,原告が本件受診後の被告らの対応につき誠意がないと感じていることを考慮しても,被告医師の過失が故意行為に比肩するほどの重大なものとまでは認められないことにも鑑みれば,上記認定は左右されない。

  (8) 介護費用      274万7987円

    証拠(甲■2,8)及び弁論の全趣旨によれば,●は死亡するまでの間に,274万7987円の介護費用を負担したと認められるから,本件投与により●には介護費用として同額の損害が生じたと認められる。

  (9) 弁護士費用     565万6996円

    本件事案の難易等諸般の事情を考慮すれば,上記認容額合計5656万9964円の1割をもって相当因果関係のある損害と認めるのが相当であり,その額は565万6996円(端数切捨て)である。

  (10) 以上によれば,損害額の合計は6222万6960円となる。

  (11) なお,被告らは,●には他の疾患もあったから,その入院生活は低酸素脳症のみを原因とするものではなかったとも主張する。しかし,本件において原告の主張する損害は,①新河端病院での治療費・入院雑費・付添看護費用・入院慰謝料,②平成28年7月22日(なごみの里病院への転院の日)までの休業損害・同日症状固定を前提とする後遺障害逸失利益・後遺障害慰謝料,③同月から死亡までの介護費用であるところ,●の低酸素脳症による昏睡状態に鑑みれば,新河端病院において同症状のための入院治療等が必要であったこと及び同症状のために介護費用を要したことも明らかであり,また,他の疾患の有無は同症状による後遺障害の認定を左右するものともいえないから,被告らの主張は本件における●の損害についての認定判断を左右するものではない(本件投与の際に●に具体的な疾患があったとは認められないことは前記3のとおりである。また,死亡時の直接死因が肝臓癌とされているといっても,そもそもこれと低酸素脳症又は昏睡状態との関連を明らかにする的確な証拠はないほか,証拠〔甲●10・7,8,565,566頁〕によれば,死亡の前々日〔平成30年4月1日〕に至って状態が悪化したに過ぎず,カルテには,■Tの陰影が腫瘍であるかは可能性の域を出ない旨の記載もあると認められることにも鑑みると,他の疾患はいずれにしても本件の損害認定において考慮すべき事情とはならないというべきである。)。

第4 結論

   以上によれば,その余の点について判断するまでもなく,原告の被告法人に対する民法715条1項に基づく請求及び被告医師に対する請求は,上記限度で理由があるからそれぞれ認容し,被告法人に対する債務不履行に基づく請求を含めてその余の請求はいずれも理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。なお,仮執行免脱宣言は,相当でないからこれを付さないこととする。

    京都地方裁判所第2民事部

        裁判長裁判官  長谷部幸弥

           裁判官  和田三貴子

           裁判官  浦恩城泰史



医療過誤・弁護士・医師相談ネットへのお問い合わせ、関連情報

弁護士法人ウィズ 弁護士法人ウィズ - 交通事故交渉弁護士 弁護士法人ウィズ - 遺産・相続・信託・死後事務 法律相談窓口

ページの先頭へ戻る